アポマトックス・コートハウスの戦い

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アポマトックス・コートハウスの戦い
Battle of Appomattox Courthouse
南北戦争
Appomattox courthouse.jpg
郡庁舎の前の北軍兵、1865年4月
1865年4月9日
場所 バージニア州アポマトックス・コートハウス
結果 北軍の勝利、南軍北バージニア軍の降伏
衝突した勢力
アメリカ合衆国の旗北軍 Flag of the Confederate States of America (1865).svg 南軍
指揮官
ユリシーズ・グラント ロバート・E・リー
戦力
ポトマック軍
ジェームズ
北バージニア軍
被害者数
164名[1] ~戦死および負傷者500名以下[1]
降伏27,805名、その後釈放

アポマトックス・コートハウスの戦い(アポマトックス・コートハウスのたたかい、英:Battle of Appomattox Courthouse)は、南北戦争の最終盤1865年4月9日アポマトックス方面作戦の最後としてバージニア州アポマトックス郡で行われた戦いである。この戦闘での敗北の結果、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍は、北軍ユリシーズ・グラントに降伏し、南北戦争を事実上終わらせることになった。

背景[編集]

1865年4月1日、北軍フィリップ・シェリダン少将の騎兵隊はファイブフォークスの戦いでリー軍の右側面に回った。翌日グラント軍はピーターズバーグの防御線を決定的に突破し包囲戦を終わらせた。リーはピーターズバーグリッチモンドを放棄し、補給列車が待っているはずの西のアポマトックス駅に向かった。そこからは南に動いてノースカロライナ州にいるジョセフ・ジョンストン軍との合流を期待していた。4月8日、アポマトックス駅の戦いで北軍のジョージ・カスター准将の騎兵師団がリー軍を待っていた3編成の補給列車と25門の大砲を捕獲し列車を焼いて、実質的にリー軍の退路を塞いだ。北軍のポトマック軍ジェームズ軍はアポマトックスに集結した。

アポマトックスに至る道[編集]

リーはアポマトックスにあった自軍の補給物資を破壊され、このとき他に補給物資が待っているリンチバーグへ向かう鉄道に目を向けた。北軍はリー軍に迫っており、リー軍とリンチバーグの間には北軍騎兵隊がいた。リーは歩兵隊が到着する前に騎兵隊を突破することを望んだ。リーはグラントに伝言を送って、現在は降伏を望んでいないが、グラントの提示する条件がいかに南軍に影響するかを議論する用意があると伝えた。グラントは拍動性の頭痛があり、「リーがまだ戦うと言っているかのようだ」と言った[2]。北軍の歩兵隊は接近していたが、シェリダンの騎兵隊を支援できるだけ近くにいる部隊はジョン・ギボン少将のジェームズ軍第23軍団だけだった。この軍団は21時間で30マイル (50 km)を行軍して騎兵隊の所に到着した。ジェームズ軍指揮官のエドワード・オード第24軍団と共に午前4時頃に到着し、第5軍団も後方に近付いていた。シェリダンはアポマトックス・コートハウス南西の低い尾根に騎兵3個師団を配置した。

最後の戦闘[編集]

4月9日の夜明け、南軍ジョン・B・ゴードン少将の第2軍団はシェリダンの騎兵隊を攻撃し、素早く最初の前線から後退させた。南軍のフィッツヒュー・リー少将の騎兵隊が北軍の側面に回りこんだ。次の前線はラナルド・S・マッケンジージョージ・クルック各准将が守っていたが、これも後退した。ゴードン軍団は北軍前線に突撃して尾根を占領したが、その頂部に達した時、北軍第24軍団全軍が第5軍団を右手にして戦闘隊形にあることを見出した。フィッツヒュー・リーの騎兵隊はこれら北軍を見て即座に後退し、リンチバーグ方面に去った。オード軍団がゴードン軍団に向けて前進を開始し、一方北軍の第2軍団が北東にいた南軍ジェイムズ・ロングストリートの軍団に向けてこれも前進を始めた。リーの参謀チャールズ・ベナブル大佐がこの時ゴードンのところに馬で乗りつけ、評価を求めたとき、ゴードンはリーが聞きたくないと分かっていることを答えた。「リー将軍には、私がこの軍団をボロボロになるまで戦わせたこと、今ロングストリートの軍団から十分な支援が得られなければ何もできないと思うと伝えてくれ。」リーはこの答えを聞いて遂に避け難いことを告げた。「それでは私ができることはグラント将軍に会いに行くこと以外残っていない、私は千の死も死のう。」

リーの士官たちの多くはロングストリートを含めて、軍隊が降伏することが残された唯一の選択肢であることに合意した。只一人降伏に反対した高貴な士官はロングストリートの砲兵長エドワード・ポーター・アレクサンダー准将であり、もしリーが降伏すれば「他の南軍も同じ道を辿る」と予言した。午前8時、リーは馬でグラントとの会見に向かい、3人の副官が同行した。ゴードンの前線と、ロングストリート軍団にいまだ前進している北軍散兵の辺りでは銃声が聞こえており、リーはグラントから伝言を受け取った。グラントとリーの間で数時間文書のやり取りがあり、休戦が実現し、グラントはリーの降伏条件を議論したいという要請を受けた。リーの副官チャールズ・マーシャル大佐がグラントとリーの会見場所を探しに行った。マーシャルはウィルマー・マクリーンの家を選択したが、マクリーンは偶然にもこの南北戦争での最初の大会戦である第一次ブルランの戦いのときに南軍P・G・T・ボーリガード将軍が借りた家の持ち主と同じ者だった。

降伏[編集]

リーは染み一つ無い制服を着てグラントの到着を待った。グラントはリーからの伝言を受け取った時に頭痛が治り泥の跳ね散った制服を着て到着した。政府支給のフランネルのシャツを着て、ズボンは泥の付いた長靴にたくし込み、帯剣はなく、唯一色褪せした肩章のみがその階級を示していた[3]。グラントは突然悲しみに捉われて、会見の場所にいくのが辛くなり、2人の将軍は以前米墨戦争で出会ったときの話を簡単にしただけだった。リーが当座の問題に話を戻し、グラントは前に決めていたのと同じ条件を提示した。

今月8日の貴方に宛てた手紙の大要に従い、次の条件で着たバージニア軍の降伏受け入れを提案する。すなわち、全ての士官と兵士の名簿を2部作成すること。1部は私の指名する士官に渡し、他の1部は貴方が指名する士官あるいは士官たちに保管させること。士官たちにはアメリカ合衆国政府に対して適切な交換が行われるまで武器を取り上げられることなく個々の仮釈放が与えられ、中隊あるいは連隊指揮官はその指揮下の兵士の同様な仮釈放に署名すること。武器、大砲および公的な資産は留め置かれ、私が受け取りを指名する士官に渡すこと。これには士官の帯剣を含まず、私物の馬や荷物にも及ばない。これが終われば各々の士官や兵士はその故郷に帰ることが許され、仮釈放の条件と住むことになる場所の現行法を守る限りアメリカ合衆国当局によって妨げられることは無いこと。

この寛大な条件に加えて、グラントは敗軍の兵士達にその馬やロバを連れ帰り春植えの植物の種を持たせ、リーにはその飢えた兵士達に食糧を与えることもした。リーは、それが兵士達の間に大変良い効果を齎すであろう事、国中に和解を齎すために良い効果を生むであろうことを述べた。リーが家を出て馬で去ると、グラントの兵士達は祝賀の喝采を始めたが、グラントはそれを直ぐに止めさせた。「しかし、私は直ぐにそれを止めるように言った。南軍も今は我々の国の者でであり、彼らの失墜を歓喜したいとは思わなかった。」

正式な降伏[編集]

4月10日、リーはその軍隊に告別の挨拶を行った。同じ日に6人の代理人が集まって正式な降伏儀式に付いて話し合った。ただし、南軍の士官はだれもそのような行事に出たいとは思ってもいなかった。その儀式を遂行するために選ばれた北軍の士官はジョシュア・チェンバレン准将であり、彼は後に1865年4月12日に目撃したことを回想し、感動的な賛辞を書いた。

この儀式の重大な意味で私は深く感動した。私はそれを何か認識できる印で残そうと思ったが、それは祝砲以外の何ものでもあり得なかった。請け負った責任を認識し、その後の批判も考えると、結果はそのような種類のものでは少なくとも私を動かし得ないことが分かった。そのような祝砲が南軍の旗が立っている方にではなく、北軍の旗の間に降ろされることに対して成されると提案することで、もし必要ならば弁護されることだろう。しかし、私の主要な理由はそのために如何なる権威も許しを請うことも求めないということだった。我々の前に誇らしく屈辱の中で立っているのは男らしい者達そのものであり、その労力や苦しみも、死という事実も、悲惨なことも、希望の無さもその決意を曲げさせることは無かった。今我々の前に立っているのは、痩せ、疲れきり、空腹ではあるが、直立し我々を直視し、他でもない我々と共有する記憶を思い起こしているのであり、そのように試され約束されて連邦に戻ってくるのを歓迎される男達ではないか?指示があり、各師団の長が我々集団の向かい側に並び、ラッパの合図で我々の全線が右から左まで、連隊から連隊と並び、兵士が挨拶を交わし、「立て銃」から「構え銃」まで、祝砲が鳴った。縦隊の先頭にいたゴードンは沈んだ心と伏し目で馬に乗り、武器を渡す音を聞くと、顔を上げてその意味を悟り、華麗に馬を回して自分自身と馬で高揚した姿となり、その剣を長靴のつま先に落とす時に満足げな挨拶をした。続いて部隊の兵士達に向かい、その一連の旅団に同じ位置で我々に渡すよう声をかけた。栄誉が栄誉に答えた。我々の側にはもはやラッパの音も無く、太鼓も、歓声も、言葉も、虚しい栄光の囁きも、整列して立っている兵士の動きもなくなったが、死の時が過ぎるかのように敬虔な静寂さと息を殺したようなものがあった。

ジョシュア・L・チェンバレン[4]

この日、27,805名の南軍兵が通りその武器を積んだ。

戦闘の後[編集]

このとき国中では175,000名の南軍兵が残っていた。南軍のポーター・アレクサンダーがまさに予測していたように、他の南軍が降伏を始めるのは時間の問題だった。リー降伏の報せが広まると、他の南軍指揮官達は南軍が死に体以外の何者でもないことを悟り、自分達も武器を置くことにした。リーが合流を望んでいたノース・カロライナ州のジョセフ・ジョンストン軍は4月26日ウィリアム・シャーマン少将に対して降伏した。エドマンド・カービー・スミス将軍は5月にそのミシシッピ流域軍を降伏し、スタンド・ワティー准将は6月23日に最後の軍勢のある組織化された南軍として降伏した。

この降伏後にも幾つかの小さな戦闘が起こり、パルメット農場の戦いは南軍最後の軍事行動として広く知られている。

リーは降伏の時のグラントの寛大さを忘れることはなく、その残りの人生を通じて自分の前でグラントについて言われたぶしつけな言葉を容赦しなかった。同様にゴードン将軍はその降伏する軍隊に敬意を表するチェンバレンの単純な行動を胸にしまっておき、「騎士の誉れ」の例としてチェンバレンのことを引き合いに出した。

脚注[編集]

  1. ^ a b Salmon, p. 492.
  2. ^ Korn, p. 137.
  3. ^ Smith, pp. 403-04.
  4. ^ Passing of the Armies, pp. 260-61

関連項目[編集]

参考文献[編集]