アブラム・ガンニバル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
少将アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバル

アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバルAbram Petrovich Gannibal, またはHannibalGanibal 、イブラヒム・ハンニバルIbrahim Hannibalとも, ロシア語表記:Абрам Петрович Ганнибал,1696年 - 1781年5月14日)は、ロシアの軍人。ロシア皇帝ピョートル1世によってアフリカから連れてこられ、少将、軍事技術者、タリン総督となった。詩人アレクサンドル・プーシキンの曾祖父としてよく知られている。

略歴[編集]

出生[編集]

彼の生まれは定かでない。ガンニバルについて初期に記したものには、彼は1696年にエチオピアの村ラゴンで生まれたとある。村にはマレブ川英語版が流れていたという(現在マレブ川は、エチオピア=エリトレア間の国境となっている)。しかし、それを裏付けるものはエチオピアにない。1996年の調査によると、チャド湖南部の現在のカメルーンに、ロゴネ=ビルニというスルタンがいることからそれではないかと推測されている。

幼年時代[編集]

ガンニバルが1742年にエリザヴェータ女帝に提出した公式の書類には、貴族の地位と紋章のための請願書が書かれ、彼はゾウと神秘的な文字FVMMOと書かれた家紋を使用する権利を認めて欲しいと記していた。これは西アフリカのコトコが故郷であることを意味する。しかし、FVMMOは、ラテン語の“Fortuna Vitam Meam Mutavit Oppido”(幸運がこの都市で私の人生を変えた)の頭文字をとったものだと推測されるのである。

7歳の時(1703年頃)、ガンニバルはコンスタンティノープルにいるオスマン帝国のスルタンの元へ連れて行かれた。この年、スルタン位はムスタファ2世からアフメト3世に変わった。彼自身の言葉で筆者不明だといわれるガンニバルのドイツ語の自伝では、「全てのイスラム教支配者すなわちトルコのスルタンは、貴族の家から人質として子供を差し出させた。」とある。親の振る舞いに疑念を抱かれれば子供を殺すか、奴隷として売り払ったのである。ガンニバルの姉レバンは同時期に身柄を拘束されたが、旅の途中で死んだ。

1704年、コンスタンティノープルで、ロシア大使サヴァ・ラクジンスキーの代理人によってガンニバルは連れ去られた。彼の上官ピョートル・アンドレーエヴィチ・トルストイロシア語版英語版(作家レフ・トルストイの曾祖父)の差し金だったとされる。

これは全てピョートル1世の命令によるものだった。明らかに、ガンニバルは連れてこられた唯一のアラブ人の子供ではなかったのである。ヨーロッパ王家の宮廷で黒人の子供は珍重されたので、これが皇帝の命令の動機ではない。アラブ人は野蛮で文明化されていないと当時思われていたが、ピョートル1世はこの子供たちを、ロシア貴族の子供と同様に芸術や科学をよくすることを証明し、肌の色ではなくその能力で認められるよう、見せたかったのである。

ガンニバルは1705年に、ヴィリニュスのサンクト・パラスケワ教会で、洗礼を受けた。ピョートル1世が彼の名付け親となった。

教育[編集]

1717年、ガンニバルは芸術・科学・軍事の教育を続けるべくパリへ連れて行かれた。その頃から彼は流暢に数カ国語を話し、数学と幾何学を知った。彼はルイ15世の軍に加わり、フェリペ5世軍と戦った。この時に大尉となった。フランス滞在時代、ガンニバルはカルタゴの将軍ハンニバルにちなんだ姓を名乗るようになった(ガンニバルとはハンニバルをロシア語表記したものである)。パリで、彼は啓蒙時代の象徴ディドロモンテスキューヴォルテールと親交を結んだ。ヴォルテールはガンニバルを、『啓蒙時代の暗褐色の星』と呼んだ。

ロシア皇帝のもとで[編集]

Letter signed by A. Ganibal March 22, 1744. Tallinn City Archive.

ガンニバルの教育は1722年に終了し、彼はロシアへ帰国することとなった。彼はピョートル1世に、ロシアへ海路でなく陸路で帰国する許しを求める手紙を書いた。彼は帰国途上に、ピョートル自身とモスクワから数キロ離れたところで会ったと噂された。

1725年にピョートル1世が死ぬと、ガンニバルは1727年サンクトペテルブルクから4000マイルも東のシベリアへ流された。彼は1730年に、その軍事技術の有能さ故に許された。1741年、ピョートル1世の娘エリザヴェータが即位すると、彼は女帝の宮廷で揺るぎない存在となり、少将の地位を与えられ、タリンの総督となった(1742年-1752年)。1744年3月22日には、手紙に“A. Ganibal”と署名を残した。エリザヴェータは1742年に、100人以上の農奴のいるプスコフのミハイロヴスコーエを所領として与えた。

偉大な将軍アレクサンドル・スヴォーロフは、ガンニバルが彼の父に息子を軍人とするよう説得したことから、彼の一兵卒として仕えたと噂された。

家族[編集]

ガンニバルは二度結婚した。最初はギリシャ人エヴドキア・ディオペルだった。2人は1731年に結婚し一女をもうけた。不幸なことにエヴドキアは夫をひどく嫌っていた。彼女にとっては強いられた結婚だったためである。ガンニバルはエヴドキアが不貞をはたらいたことを知ると、妻を捕らえて監獄へ入れ、エヴドキアは11年も恐ろしい環境に置かれることになった。ガンニバルはクリスティナ・レジナ・シェベルクという別の女性と暮らし始め、1736年にレヴァル(現在のタリン)で、エヴドキアと正式に離婚しないままクリスティナと再婚した(同年にクリスティナとの最初の子供が生まれた)。エヴドキアとの離婚は1753年まで完了せず、ガンニバルは彼女を修道院へ送り、彼女はそこで余生を送った。ガンニバルの二度目の結婚は合法とみなされなかった。

二度目の妻クリスティナは、スカンディナヴィアドイツの貴族の血を引いていた。2人には10人の子供が生まれた。息子の一人オシプは一人娘ナジェージダをもうけた。ナジェージダはアレクサンドル・プーシキンの母となった。ガンニバルの長男イワンは海軍士官となり、1779年にウクライナヘルソンを創建、帝政ロシアでの2番目の高位軍人となった。

ガンニバルの血を引く子孫が、現代のイギリス貴族にいる。ウェストミンスター公爵夫人ナターリアen)と、ナデジダ・マウントバッテンプーシキンの曾孫)の孫4代ミルフォード=ヘイヴン侯ジョージ・マウントバッテンen)である。

外部リンク[編集]