アブドル・ハリム

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アブドル・ハリムサイドゥラエフ・アブドル-ハリム・アブ-サラモヴィッチ1966年6月2日 - 2006年6月17日)は、国際的に未承認の第4代チェチェン・イチケリア共和国大統領でチェチェン独立派の最高指導者の1人である。

経歴[編集]

アブドル・ハリムはアルグン市に生まれ育った。チェチェンのウストラドイ部族(テイプ)に所属する。ウストラドイは、アルグン市の設立者と考えられている。アブドル・ハリムは、1度のマッカ(メッカ)巡礼を除き、人生で一度もチェチェンを離れたことはない。

有名なチェチェンの神学者の元で学んだ。チェチェンにおけるイスラム復興の積極的参加者である。彼自身は、教師となり、青年にイスラムを教えた。チェチェン大学の哲学部で学んだが、開戦と関連して卒業することができなかった。チェチェン語アラブ語及びロシア語を話す。第一次チェチェン紛争の参加者。第1次と第2次戦争の間の期間、チェチェンのテレビ放送でイスラムを積極的に布教した。アルグン市のイスラム・ジャマートを率いた。チェチェンの各地域でイスラムの講義を行った。暫くの間、アルグン・モスクイマムだった。

1999年、アスラン・マスハドフ第3代大統領の命令により、憲法シャリーア改革国家委員会に入った。

第二次チェチェン紛争の開始と共に、チェチェン・イチケリア共和国軍の編成下に入るアルグン民兵部隊を指揮した。

2002年、チェチェン・イチケリア共和国マジリスリ・シュラ(国家防衛会議、戦時におけるチェチェン・イチケリア共和国の最高国家権力機関)の拡大会議において、国家防衛委員会(マジリスリ・シュラ)シャリーア委員会議長兼チェチェン・イチケリア最高シャリーア裁判所所長に任命された。

マスハドフ大統領の命令により、ジョハル・ドゥダエフにより制定された最高勲章キオマン・シー(民族の名誉)を含むチェチェン国家の2つの勲章を授与された。

2003年、連邦軍はアブドル・ハリムの妻を略取した。彼女を買収する試みは成功しなかった。カフカーズ・センターの情報によれば、彼女は、FSB職員により殺害された。

2004年8月、インターネット上にアブドル・ハリムがアスラン・マスハドフと共同で録画したビデオ声明が公表された。

ロシア検察庁は、彼を「国境のない医師達」団長ケネット・グラーク暗殺(2001年)の注文主と呼んでいた。

2005年3月8日、アスラン・マスハドフの殺害後、アブドル・ハリムは大統領に選出された。同年5月5日、彼の発議により、チェチェン・イチケリア共和国軍カフカーズ戦線(指揮官アミール・アブ-ムスリム)が創設された。

2006年6月17日、ロシア連邦保安庁とチェチェン共和国内務省の共同作戦により、アブドル・ハリムは殺害された。同日、在ロンドン・チェチェン分離主義者代表アフメド・ザカエフは、野戦指揮官の1人、副大統領ドク・ウマロフが大統領職を継承したと表明した。

先代:
アスラン・マスハドフ
チェチェン独立派の大統領
2005年 - 2006年
次代:
ドク・ウマロフ