アフガン難民

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アフガン難民(あふがんなんみん)またはアフガニスタン難民とは、1978年から2014年現在まで断続的に発生している紛争により、アフガニスタン国内から国外に逃げた人々のことである。1990年代までに、アフガン難民のうちおよそ330万人がパキスタンに、300万人がイランに定住した。彼らの一部はロシアヨーロッパ北アメリカオーストラリアインド中央アジアなど世界の各地へ離散した[1]

アフガニスタン国内に留まる国内避難民も「アフガン難民」と呼んで間違いではないが、一般には国外に逃れた人達を指すことが多い。

初期[編集]

1979年12月のソ連軍によるアフガニスタン侵攻の時点で、難民は60万人に達した[2]。対ソ連戦略を鮮明にする欧米各国から1979年-1997年の間にパキスタンのアフガン難民支援に10億ドル以上の資金が投入された。そしてそれは水、食料、衛生、医療に生かされた[3]

1980年代からはマドラサと呼ばれる高等教育機関もつくられ、自立化が図られた。パキスタンの難民キャンプは対ソ連イスラム抵抗組織「ムジャーヒディーン」の拠点となり、後にターリバーン幹部を世に送り出すことにつながった。一方、同時期のイランには、1979年のイスラム革命反米国家となったため1.5億ドルしか資金援助がなかった。このことはイラン国内の難民の自立化を困難にした。アフガニスタンでは欧米やアラブ諸国から支援を受けたムジャーヒディーン]の抵抗により、1988年にはアフガニスタン、パキスタン、ソ連、アメリカの4ヶ国協定でソ連軍の撤退が決定した[3]

1989年にソ連軍が撤退した後も引き続き内戦が発生したため、母国を追われた市民はパキスタンとイラン合わせて630万人の難民となった。1992年人民民主党政権瓦解後はムジャーヒディーン勢力間の主導権争いの内戦は泥沼の様相を呈した。ムジャーヒディーン各派とも難民キャンプをその拠点としている場合が多く、治安に大きな影響を与えた。内戦の中1992年にはパキスタンから127万人、翌1993年にはイランから60万人の難民が帰還を果たした[3]

2001年〜[編集]

2001年9月10日時点での難民数は、パキスタンに200万人、イランに150万人、その他周辺諸国に19万5000人をかぞえた。さらに越境していない国内避難民も100万人存在した[3]

2001年9月11日以後、米軍NATOがアフガニスタンでターリバーンとの戦闘の準備を整えていたとき、さらに100万のアフガニスタン人が今後予想される米軍・NATO軍・北部同盟軍による攻撃から逃れるため、自国から避難した。2001年末までに、およそ500万人のアフガン難民がパキスタンに避難していた。そしてその中には過去20年の間にその国で生まれた数をも含む。同じ頃イランには240万人の難民が避難していた。両国を合わせると難民の数は740万人にも上った。11月14日には国際連合安全保障理事会決議1378によって難民の帰還促進支援の方針が定まった。

パキスタンからカブールに到着した難民(2004年)

2002年初頭から国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を通じて450万人のアフガン難民がイランとパキスタンから本国アフガニスタンへ送還された。2006年の時点でアフガン難民のうちほぼ240万人がパキスタンに、92万人がイランに留まった[4]

2007年〜[編集]

2007年10月、アフガニスタン議会はイラン政府に対し公開書簡を送り、この中でアフガン難民の国外退去を冬の終わりまで待つよう要求した[5]

UNHCRの事務所長Salvatore LombardoとUNAMAの広報担当者Nilab Mubarez博士は、冬休みのためパキスタンからアフガン難民の自発的な帰還プロセスに遅れを生じていることを発表した。2007年に35万人以上の難民がパキスタンから本国へ送還された。だが200万人はパキスタンに残ったままであった[6]。UNHCR事務所から100米ドル相当の当面の生活に必要な資金や食料などを各々の難民が受け取り[7]、本国帰還プロセスは2007年3月のはじめから10月31日の間に行われた。

パキスタンから到着した難民のおよそ80パーセントは北西辺境州に住んでいた。13パーセントがバローチスターン州、3パーセントがシンド州、そして残りの4パーセントがパンジャーブ州とパキスタンの首都イスラマバードであった。また彼らの57パーセントがナンガルハール州に帰り、残りは6.5パーセントがラグマーン州、6パーセントがカーブル州、4.4パーセントがカンダハール州、それぞれ3.7パーセントがクンドゥーズ州ガズニー州に帰還した。2006年にはカーブル州がトップで、ナンガルハール州、クンドゥーズ州、ローガル州パクティヤー州がそれに続いた[8]

現在そして問題点[編集]

アフガニスタンが政情不安の増大により、彼ら難民の滞在が延長される事態にならない限り、残りの難民も2009年12月までに徐々にパキスタンを発つこととなっている。多くの人々がパキスタンで出生し、結婚して、その国に定着したので、国勢調査によってもアフガン難民の数を正確に調査できないという問題がある。

またパキスタンで生まれたアフガン難民の内いくらかはこれまでアフガニスタンに行ったことが無く、パキスタンこそ我が故郷と考えている[9]。アフガニスタンに戻る家族にはUNHCRによって発行される本国送還文書によって、アフガニスタン政府から新しい家を建築するため無償で土地が提供されるという[10]

しかし現実は予想を超える帰還者の数にアフガニスタン政府は全く対応し切れていないのが実情である。アフガニスタン国内の失業率は40パーセントを超え、これに難民の帰還者を加えるとさらに増加することが見込まれる。また国内は深刻な食糧難であり価格の高騰により貧困にあえぐ難民達を直撃する[11]。そのため再び元の難民キャンプに戻りたがる者もいるという[7]。この状態が今後も続くようであれば、若者はターリバーンへ流入し、いっそうの治安低下を招くことにもつながりかねない。同国の再建・復興への取り組みが急務である[11]

脚注[編集]

外部リンク[編集]