アダルベルト2世

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アダルベルト2世Adalberto II, 931年 – 975年秋)は、イヴレーア辺境伯(侯)およびイタリア王。父ベレンガーリオ2世と共同で950年から962年まで王位に就いた(951年からはドイツ王オットー1世対立王であった)。イヴレーアのアダルベルト (Adalberto d'Ivrea) や、イタリアのアダルベルト (Adalberto d'Italia) とも呼ばれる。

出自[編集]

イヴレーア辺境伯ベレンガーリオ2世とアルルのウィラ3世との息子で、母親のウィラ3世はプロヴァンス伯でトスカーナ辺境伯ボゾーネと、ブルゴーニュ王ルドルフ1世とウィラとの娘のウィラ2世の娘である。

略歴[編集]

950年12月15日、アダルベルトは父ベレンガーリオ2世とともに一部の貴族からイタリア王に選出された。ところが彼らの対抗勢力は同年11月に亡くなった前王ロターリオ2世の未亡人で、多額の持参金をベレンガーリオに没収された上に虐待され投獄されているアデライデの回りに固まった[1]

アデライデは951年に逃亡に成功し、8月にレッジョの司教に助けを求め、レッジョ司教の部下であるアダルベルト=アットの元で難攻不落のカノッサの城に逃げ込んだ。

同年9月、ザクセンのオットー1世がアデライデの権利を主張するためにイタリアに南下、抵抗に遭うこともなくパヴィーアに着いた。ところがアダルベルトとベレンガーリオは自分達の城に籠城し、オットーはイタリア王の未亡人であるアデライデと結婚し、アガペトゥス2世に皇帝冠を要求し、その後ミラノにて「フランクランゴバルドの王」 (rex francorum et longobardorum) の称号を引き継いだ。

952年2月にはオットーは単独でイタリア王国を征服した後、続いて教皇を罷免、アダルベルトとベレンガーリオに対する戦争の継続には娘婿ロートリンゲン公コンラートを残してゲルマニアに戻った。彼らとコンラートとの和平は早期解決した。アウグスタの会議(952年8月)で、アダルベルトとその父ベレンガーリオ2世はオットーの臣下として王権の授与を承認された。しかしその時オットーの弟であるバイエルン公ハインリヒ1世ヴェローナフリウーリイストリアの封土を奪われた。イタリアに戻り、アダルベルトと結果も出せずに惨めにも包囲下にあるその父、アダルベルト=アット伯とベレンガーリオと妻ウィラ3世は、彼らを裏切った貴族と多くの聖職者に復讐した。

バイエルン公ハインリヒ1世の死後の955年、オットーがマジャル人との先頭に奔走している間に、アダルベルトとその父はヴェローナ辺境伯の地位を取り戻した。そして957年にオットーは2度目のイタリア遠征を組織し、その指揮を長男の元シュヴァーベン公ロイドルフに任せた。彼はアダルベルトを打ち負かし(ベレンガーリオは逃亡した)ロンバルディア全土を征服したが、マッジョーレ湖畔のポンビアの町で悪性の発熱のために急逝した[2]。ロイドルフの死を利用して、アダルベルトとその父は失っていた全ての領土を回復し、復讐を開始した。

958年から959年の間に、シャロンおよびオータン伯ランベールの娘ジェルベルガ(? - 986年)と結婚した。

959年、スポレート公国に確かな支援者がもういない事を確認したベレンガーリオはスポレートを攻撃し、テオバルド2世公を追放した。アダルベルトはその間に教皇領を簒奪し、ヨハネス12世960年ゲルマニアにいる使者を呼び、オットー1世への救援を催促した。961年8月、ヨハネス12世に呼ばれ、オットーは再度イタリア入りした。その間、アダルベルトはヴェローナ北部にて反乱軍を組織し、ベレンガーリオはパヴィーアの王宮を焼き払った後逃亡し、サン・レーオの要塞に籠城した。アダルベルトはほぼ全ての領主や司教を裏切って、オットーの進撃の前線から逃亡した。アダルベルトとベレンガーリオの王位は正式に剥奪された後、オットーはパヴィーアに入り、イタリア王を戴冠、幼い息子オットー(ドイツに残った)を共同摂政につけた。オットーはトスカーナ辺境伯領がアダルベルトとベレンガーリオに味方していたため、ラヴェンナを通過してローマへ向かった。そして962年2月2日ヨハネス12世により皇帝として戴冠を受けた。

北部に戻る際、トスカーナ辺境伯ウベルトを攻撃、彼は敗北し逃亡した。湖水地方で、兄弟のグイードコッラード、そして母ウィラ3世と共に籠城しているアダルベルトを攻撃した。アダルベルトは当時サラセン人の支配下にあった南フランスのフラクシネトゥムまで逃亡、そこからコルシカ島に渡った。彼の母はオルタ湖近くの城で降伏を余儀なくされ、サン・レーオの夫ベレンガーリオ2世の元へ行く許しを得た。弟グイードとコッラードは服従を誓い、イヴレーア辺境伯位を再び獲得した。963年にサン・レーオが落ちるとベレンガーリオは逮捕され、妻ウィラと共にバンベルクに亡命した。

オットー1世が発った後の965年に、アダルベルトは再びイタリア入りして反乱の企てを模索したが、皇帝オットー1世に召喚されたシュヴァーベン公ブルヒャルト3世に敗北し、イヴレーア侯位を奪うことには成功しなかった[3]

968年、アダルベルトはプーリア地方の領有に関する対オットー1世の戦争において、東ローマ皇帝ニケフォロス2世フォカスと同盟したが、後年の2人の皇帝間の対立が終焉した時、アダルベルトはブルゴーニュへの逃亡を余儀なくされ、975年にその地で亡くなった。

子供[編集]

アダルベルトとジェルベルガには以下の5人の子供がいる。

備考[編集]

  1. ^ 投獄されている間にアデライデはアダルベルトと結婚するように強いられたといわれる。
  2. ^ ロイドルフはアダルベルトに毒殺されたという伝承もある。
  3. ^ イヴレーア辺境伯は965年に弟グイードの死により空位となるが、それはその弟コッラードがオットー1世に従属して終わる。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • AA.VV., Enciclopedia biografica universale. Treccani edizione 2006年.
  • AA.VV., I diplomi dei re d'Italia. Ricerche storico-diplomatiche, I.I diplomi di Berengario I, Bollettino dell'Istituto storico italiano” 23 (1902年), 1-167頁。
  • AA.VV., I diplomi di Ugo e di Lotario, di Berengario II e di Adalberto, ローマ 1924年
  • AA.VV.,La corona ferrea nell'Europa degli imperi, Ed. Giorgio Mondadori 1995年
  • M.A.Levi, Contributi alla storia dei re d'Italia nel sec. X. , トリノ.
  • C. W. Previté-Orton, "L'Italia nel X secolo", cap. XXI, vol. II (L'espansione islamica e la nascita dell'Europa feudale) della Storia del Mondo Medievale, 1999年, 662-701頁。
先代:
ベレンガーリオ2世
イヴレーア辺境伯
950年
次代:
グイード・ディヴレーア
先代:
ロターリオ2世
イタリア王
950年 - 963年
953年からベレンガーリオ2世と共同の王位)
次代:
オットーネ1世