アシスト (自転車競技)
自転車競技におけるアシスト、ドメスティーク(仏: domestique)とは、チームとエース(主力選手)の利益のために働く自転車ロードレース選手である。ドメスティークはフランス語で「下僕」を意味する[n 1]。この言葉は1911年に作られたが、それ以前もこの役割の選手は存在した。
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[編集] 発祥
自転車競技選手は前方の空気を横へ押しやる努力を要する。先頭に立つよりも、別の選手のスリップストリームの中で走行はより容易である。走行速度が上がるにつれ、この相違が増す。選手ははじめからこれを知っており、先頭を交代しながら走行する。それから徐々に選手はスリップストリームを作りエースが後方で走行する。
アシストの人数が増えると、より複雑な戦略が可能となる(下記参照)。アシストが完走することは、その役割よりも重要ではない。アシストは、エディ・メルクス、ベルナール・イノー、ミゲル・インドゥライン、ランス・アームストロングといったエースの栄光を共有することはないが、自身の栄光を得ることができる。ジャック・アンクティルをアシストしたルシアン・エマールはツール・ド・フランス1966で総合優勝した。グレッグ・レモンは、ツール・ド・フランス1985でベルナール・イノーのアシストをした翌年ツール・ド・フランス1986で総合優勝した。作家のロジャー・セント・ピエールは次のように語った:
チーム戦略によりレースの勝敗が決まることが度々ある。勝利の位置に選手がいるとき、中尉と兵隊がブロックと追走の動きにエネルギーを費やす。風の中を走行してエースが彼らのホイールに囲まれて(前方の選手に近い風よけの中で)容易に走行する。アシストの土台に大部分の功績が帰さない主要大会の勝利は本当にまれである。[1]
[編集] 最初のアシスト
エースを助ける仕事をした最初の自転車競技者はジャン・ダルガシエ (Jean Dargassies) とHenri Gaubanである。ツール・ド・フランス1907においてアンリ・ペパン (Henri Pépin) がレストランからレストランへゆっくり走れば優勝に相当すると約束し、彼のために走行した[2]。この3人は決して急がなかった。ルーベからメスへのステージでエミール・ジョルジェ (Émile Georget) よりも12時間20分以上かかったが、彼らは決して最下位ではない。当時のレースは時間制でなくポイント制だったため、審判には権限が無かった。選手の速度に関係なく、ゴールに達した順番が重要であった。当時は選手間の距離が数時間以上開くと、ライバルに追いつく見込みがなくなると急ぐ必要はなくなる。審判は全員の到着を待たなければならなかった[3]。
最初の10年間、ツールの競技規則はチーム走行を禁じていたが、ペパンは成績に影響を与えることはほとんど行わなかった。彼は第5ステージで棄権した。
[編集] 「ドメスティーク」の語源
1911年に、Cocoとして知られるモリス・ブロッコ (Maurice Brocco) を侮辱するために自転車競技でこの語が最初に使われた[4]。ブロッコは1908年から1914年の間の6度のツール・ド・フランスに出場したが1度も完走なく、1911年にステージ優勝して「ドメスティーク」の語が造られた。
ブロッコの1911年の好機はシャモニーにその日のうちに到着せず失われた。優勝が不可能となり、翌日彼は他の選手の助けを提供して、このような評判となった[4]。フランソワ・ファベールは時間超過による棄権の瀬戸際で、彼らは取引きした。ブロッコはファベールを待ち、彼のペースを作って到着した。
レース責任者であり審判長のアンリ・デグランジュは規則違反として彼の失格を望んだ。しかし証拠が無く、ブロッコが国内の自転車組織、Union Vélocipédique Françaiseに訴えることを危惧した。彼は自身の新聞『ロト』 (L'Auto) に「彼に価値はない。彼はドメスティーク(下僕)にすぎない」と書くにとどめた。
翌朝ブロッコはデグランジュに「ムッシュ(monsieur)、本日は私たちは勘定を清算をします」と挨拶した。彼は34分差で勝利した。デグランジュはツールマレー峠の登りで彼とイエロージャージのギュスタヴ・ガリグーに続いた。 ブロッコは「それで、彼と一緒に走るのは禁止か?」と叫んだ。続く山岳、オービスク峠 (Col d'Aubisque) でガリグーを置き去りにし、食あたりで道端で苦しむポール・デュボック (Paul Duboc) を抜いた。デグランジュはまだ監視していた。
「それでは、彼と一緒にいる権利はあるか?」ブロッコは叫んだ。そして彼は1人で走行し勝利した。デグランジュに2ポイント差をつけた。第一に、彼は才能ある選手であり下僕ではない。第二に、ファベールとの走行のみに商業的協定を通じた可能性があるほどの才能があった。デグランジュは、このような才能を持つすべての選手は明らかにレースを販売し続けていたと言った[5]。
デグランジュは「彼は罰を受けるに値する」「即時失格」と書いた。
他のレースでは長い間ドメスティークを受け入れていた。デグランジュはツールは個人競技であるべきの信念を持ち、考えの異なるスポンサー、自転車製造社と何度も争った。デグランジュは自転車製造社の影響を排除して1930年にツールを国、地域別チーム対抗戦に再編成したが、その結果チームワークとドメスティークを認めることとなった。
[編集] 献身的アシスト
リック・バンローイのアシスト、ヴィン・デンソン (Vin Denson) 。
「彼がレース中盤で愛着を持つビールを取ってくることも含め、彼の望むことを何でもした。
ドメスティークは偉大な男にステラ (Stella Artois) の瓶を届けるために何マイルも追いかけるため減っていった。」
1950年代の圧倒的なのクライマー、シャルリー・ゴールは、彼がルクセンブルクのマルセル・エルンツァーが続く限り、その前を走った[7]。この2人は体格が同じでロードバイクも全く同じ寸法で、エルンツァーのサドルが若干低いだけであった。彼は必要なときに自転車をゴールに与えるために常にそこにいた。
アンドレア・カレア (Andrea Carrea) はファウスト・コッピのアシストであった。「彼は卓越したグレガリオだった」ジャーナリストのJean-Luc Gatellierは言う。「個人的犠牲の完全な概念を示し……個人的公平無視のそのものだ。彼は僅かな個人的な栄光も拒否した。[8]。」カレアはツール・ド・フランス1952でローザンヌのアタック(先頭争い)に参加し、彼のエースの利益を守った。
カレアは述べた:「それを知ることなく、重要な日の始まりに陥った。驚くことに、ローザンヌでは王者のために定められたジャージを引き継いだと聞いた。私にとって、それはひどい状況だった。[8]」
カレアはレースの1位となる考えは持っていなかった。審判員が言うと彼は泣き出した。彼はコッピの位置を奪っており、この結果を恐れた[9]。彼はジャージを受け取ったとき、彼のエースがいる道をずっと視界にとらえて泣いた。
ジャン=ポール・オリバーは述べた:カレアは天が落ちたと思った。これをファウストがどう思うか? 王者が数分後に到着したとき、カレアは彼のところに行き泣いて許しを請うた。「私がこのジャージを欲くなかったことを理解してください、ファウスト。私にはその権利はない。私のような劣った男に、イエロージャージとは? [10]」
コッピは述べた:「私は、とても内気で感情的なカレアがそれをどのように受け取るのか不思議に思いました。ローザンヌの道で彼を祝福に行ったとき、彼はどんな表情をすればよいか知りませんでした。[8]」
ホセ・ルイス・アリエタはミゲル・インドゥラインのアシストであった。『レキップ』は「彼がエースをできるだけ長く風から守るために費やすのであれば、時間も、年数も数えることはないだろう」と述べた[11]。アリエタは述べた:
ビッグチームでキャリアを始めてインドゥラインのような偉大な王者の横にいる機会を得るなら、犠牲の働きで成長する。文句は言わない。逆に私は素晴らしい瞬間を生きる機会を得た。インドゥラインが勝つとき、または他の選手のために働くとき、チームのすべての選手の勝利でもある。[11]
[編集] 基本的サポート
アシストはチームカーから水と食料を運び、チームメートを敵から守る。機材トラブルからチームメートを助ける。エースのタイヤがパンクすると、アシストは前方でスリップストリームを作って走行し、元の位置に戻ることを可能にする。アシストの自転車のホイールと交換することもある。
[編集] 戦術的サポート
アシストはチームの利益のため、敵チームに対抗するために走行する。「逃げ集団」に加わることで、他のチームが追わざるをえなくする。逆に、逃げ集団にチームが離されるとき、先頭を追う。
アシストはスプリンターの先頭を引いてドラフティングにより数百メートル手前までエネルギーを蓄えるようにする。先頭隊列(トレイン)は、ゴールから10 - 15キロメートルで8人のアシストが逃げ集団でペースを上げて他チームを諦めさせることもある。1人ずつ、力尽きたチームメートが脱落する。最後にスプリンターを引くアシスト自身が優れたスプリンターであることも多い。スプリンターは飛び出して100から200メートルの直線を突進する。
山岳レースでは、アシストはペースを作ったり他チームのアタックを妨げてエースを助ける。
[編集] アシストの序列
アシストの中には序列がある。熟練したアシストは、Lieutenant(中尉)またはスーパードメスティークと呼ばれ、重要なときに呼び出される。彼らは必要とされる間、できるだけ長くエースと共に走行する。例えばランス・アームストロングは、ツール・ド・フランス山岳ステージで決定的なアタックの前にチームメートを使ってペースを作る。ツール・ド・フランス2009でのスーパードメスティークの例は、アンドレアス・クレーデン(アスタナ・チーム)およびジョージ・ヒンカピー(チーム・HTC - コロンビア)である。
[編集] 個人の栄光
アシストはステージレースでステージ優勝する機会を得ることがある。通常、これはステージレースの後半である。エースを脅かさない順位のアシストは、逃げ集団にいてもおそらく追わることはない。能力を示せれば、アシストはより大きな役割に進歩する。与えられた役割は、コース、チームの参加選手数、現在の健康状態、あるいは商業的要因など、様々な要因に基づきレース毎に実質的に変化する。例えば、チーム・サクソバンクのベテラン選手のスチュアート・オグレディは、ツール・ド・フランス2008でカルロス・サストレをアシストした。対照的に、著名でないレースである2008年Herald Sun Tourでは、サストレ(およびチームの有力メンバー)は出場せず、オーストラリア人のオグレディがチームのエースだった。彼はチームメートにアシストされ、2つのステージに優勝し総合優勝した。
[編集] アシストの進化
UCIのポイントシステムはアシストとエースの関係を変化させた。これ以前は、アシストは最終順位を気にしなかった。しかしながら、現在は選手は最終順位のポイントを得る。これによりアシストはエースよりも自身の成績を考慮するようになった。
1990年代には無線の導入により、アシストがどの位置にいても監督が役割を与えることができるようになった。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- ^ Cycling Plus, UK, undated cutting
- ^ Novrup, Svend (1999), A Moustache, Poison and Blue Glasses, Bromley, UK
- ^ Procycling, UK, 2000
- ^ a b Chany, Pierre, (1988), La Fabuleuse Histoire du Tour de France, La Martinière, France, p131
- ^ Chany, Pierre, (1988), La Fabuleuse Histoire du Tour de France, La Martinière, France, p132
- ^ Procycling, UK, 2002
- ^ Marcel Enzer
- ^ a b c L'Équipe, 13 July 2003
- ^ Chany, Pierre (1988), La Fabuleuse Histoire du Tour de France, Nathan, France
- ^ Ollivier, Jean-Paul (1990), trad and ed Yates, R., The True Story of Fausto Coppi, Bromley, London
- ^ a b L'Équipe, 7 July 2007