アカデミー・ジュリアン

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「アカデミー風景」(マリ・バシュキルツェフ作)
アカデミージュリアンはエコール・デ・ボザールと異なり、女性にも教育機会を与えた

アカデミー・ジュリアン: Académie Julian)はかつてフランスのパリに存在していた私立美術学校。

1868年、画家ロドルフェ・ジュリアンがパサージュ・デ・パノラマ通りに開いた個人学校が始まりとなり、名称も彼の名前から取られている[1]

元々は官立美術学校エコール・デ・ボザールを目指す為の準備学校(プレパ)だったが、次第に独自の美術教育を施すようになる。もっとも特殊な点としてボザールが女人禁制であるのに対し、女性の入校を許可していた点が挙げられる。ただしアカデミージュリアンでも男女差が一切無かった訳ではなく、性別毎のコースに分けられる伝統があった[2]

ジュリアンの開かれた教育姿勢は第二のアカデミー・コラロシイタリア系フランス人の画家フィリッポ・コラロシによる私立美術学校。同じく自由な気風で知られていた。)とも言うべきもので、女性だけでなくアメリカを初めとする他国からの美術留学も積極的に受け入れた[3]。硬直的なボザールのアカデミズム教育に対抗するアカデミージュリアンの存在感は増していき、最終的に本来はボザール内のコンテストであったイタリア留学を賞品とするローマ賞への参加資格まで与えられた[4]

画家としては然程は名を残さなかったロドルフェ・ジュリアンは教育者としては一流の手腕を持っていた。彼はボザールに対抗する革新的な教育を施す一方、優秀な画家であればボザール出身者でも教官に招致する柔軟さを見せた。アカデミズム絵画の最後の巨頭とされるウィリアム・アドルフ・ブグローも教官として生徒を指導した経験を持っている他、ジュール・ジョゼフ・ルフェーブルなども教官を務めた。

アカデミー・ジュリアンの規模は拡大を続け、幾つかの分校も設けられた。時代が反アカデミズムに傾くとますます影響力は高まり、ナビ派の結成もアカデミー・ジュリアンの学生が中心となって行われている[1]

1968年、創立から百年目に新興の美術学校エコール・シュペリウール・デ・アート・グラフィックス・ペニンゲン(ペニンゲン上級芸術学校、ESAG Penninghen)の結成に参加、単独での歴史に幕を下ろした。

学んだ画家[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b Tate Gallery, "Académie Julian."
  2. ^ Farmer, J. David. "Overcoming All Obstacles: The Women of the Académie Julian," California Art Club. April/May, 2000.
  3. ^ Russell, John. "An Art School That Also Taught Life," New York Times. March 19, 1989.
  4. ^ Chilvers, Ian, ed. (2004). "Académie," Oxford Dictionary of Art, p. 5-6. - Google ブックス