アエルツェン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
紋章 地図
(郡の位置)
Wappen von Aerzen.png Locator map HM in Germany.svg
基本情報
連邦州: ニーダーザクセン州
郡: ハーメルン=ピルモント郡
緯度経度: 北緯52度02分
東経09度15分
標高: 海抜 173 m
面積: 105.06 km²
人口:

10,617人(2013年12月31日現在) [1]

人口密度: 101 人/km²
郵便番号: 31855
市外局番: 05154
ナンバープレート: HM
自治体コード: 03 2 52 001
行政庁舎の住所: Kirchplatz 2
31855 Aerzen
ウェブサイト: www.aerzen.de
首長: ベルンハルト・ヴァーグナー (Bernhard Wagner)
郡内の位置
Aerzen in HM.svg

アエルツェンドイツ語: Aerzen)は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州ハーメルン=ピルモント郡に属すフレッケン(フレッケンとは、古くから市場の開催権など一定の自治権を認められた町、以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。同州南部に位置し、ノルトライン=ヴェストファーレン州と境を接している。

地理[編集]

位置[編集]

この市場町は、ヴェーザーベルクラント地方にあり、郡庁所在都市ハーメルンから南西約 10 km、バート・ピルモントから北に約 7 km のフンメ渓谷に位置する。アエルツェン地区の北にリュニングスベルク、南にはシーアホルツベルクおよびピルモンターベルクという山がある。東西にフンメ川が流れ、町の中心部でギーセバッハ川がフンメ川に合流する。

隣接する市町村[編集]

この町に隣接する市町村は、ヘッシシュ・オルデンドルフハーメルンエンマータールバート・ピルモント、さらにノルトライン=ヴェストファーレン州バルントルプおよびエクスタータールである。

町の構成[編集]

自治体としてのアエルツェンは、中核地区のアエルツェンの他、アホルン、デームケ、デームカーブロック、エーデンハル、エッゲ、ゲラーゼン、グリーセム、グロース・ベルケル、グルーペンハーゲン、ヘルケンドルフ、ケーニヒスフェルデ、ラーツェン、ムルトヘーペン、レーアー、ライネ、ライナーベック、ローデンベック、シェーフェルシュタイン、ゼルクセン、ヴェルデホルツの各集落からなる。

歴史[編集]

この市場町は、市町村再編の一環として1973年1月1日に上記の村落が合併して成立した。

元々アムト・アエルツェン(ここでのアムトは村落の集合体を意味する)は、同名の領主家に由来する。1178年にアエルツェン家は断絶し、その所領はエーファーシュタイン伯家のアルブレヒト3世(アルベルト3世)[2]ものとなった。14世紀中頃のエーファーシュタイン家の穀物台帳によれば、アエルツェンは13の集落からなる行政管理区の中心地となっていた。ハインリヒ獅子公の失墜後、ヴェルフ家はしばらく息を潜めながら、ホーエンシュタウフェン家に対抗してエーファーシュタイン家と戦った。1260年、ヴェルフ家のアルブレヒト1世はエーファーシュタイン家の討伐を開始し、次々とエーファーシュタイン家の支配下の各城を攻略した。1283年コンラート4世(1243年 - 1283年)はケルン大司教ジークフリートに援助を求め、アエルツェンに招いた。しかしこの司教もヴェルフ家のハインリヒ1世(アルブレヒト1世の子)によるエーファーシュタイン城奪取を阻むことはできなかった。

歳月は流れて、ヴェルフ家のベルンハルト1世は攻勢を強め、エーファーシュタイン伯ヘルマン7世(1374年 - 1413年)は、自領をブラウンシュヴァイク=リューネブルク公から護るための相続契約をパーダーボルン司教およびリッペ伯と結んだ。この両相続人は、ヘルマン7世夫人イルムガルト・フォン・エーファーシュタインがアエルツェン城を隠居所として保持することを認めた。この相互防衛同盟はエーファーシュタイン領継承戦争を引き起こすこととなった。その過程でヴェルフ家はリッペ領を広く蚕食した。1408年に和平条約が締結された。ヘルマン7世は、わずか4歳(あるいは2歳)の娘エリーザベトとベルンハルト1世の子オットー4世不自由公との結婚を約束し(1425年に結婚した)、アエルツェンはその持参領とされた。こうしてヴェルフ家はエーファーシュタイン伯とブラウンシュヴァイク=リューネブルクとの間の関係構築に成功した。

ヴェルフ家は1433年にアエルツェンを担保としてヒルデスハイム司教に供した。1508年にはこの抵当権はシュタティウス・フォン・ミュンヒハウゼンとハインリヒ・フォン・ハルデンベルクが所有していた。9年後、ヒルデスハイム司教はハルデンベルクとの賃借契約を更新せず、これによりアエルツェンは両占有者間の争いの場となった。ミュンヒハウゼンは逃走したのだが、ヒルデスハイムを目前にハインリヒ・フォン・ハルデンベルクによって殺害された。その死によりヒルデスハイム司教領のフェーデはより深刻なものとなった。1553年、カレンベルク=ゲッティンゲン侯エーリヒ公はヒルデスハイム司教からアムト・アエルツェンを取り上げ、4階建ての政庁を建設した。

1714年の書物に描かれたシュヴェッバー城

殺害されたシュタティウス・フォン・ミュンヒハウゼンの末子で傭兵隊長のヒルマー・フォン・ミュンヒハウゼン(1512年 - 1573年)は1573年までアエルツェンを担保として占有した。ヒルマーは、当時最も裕福だった人物の一人で、1561年に政庁に長さ 50 m、高さ 16 m の十分の一税倉庫を建設した。この倉庫は1980年にクロッペンブルク博物館村に復元された。また、1570年にはハーメルンの建築家コルト・テニスにシュヴェッバーに三翼構造の城館を建設するよう依頼した。1593年ハインリヒ・ユリウス公は館とアムトをヒルマー(上記ヒルマーの子)に相続させた。ヒルマー(子)は1617年にシュヴェッバーで亡くなり、アエルツェンのマリエン教会に葬られた。

その息子のベリースは抵当権を継承したが、1630年にヒルデスハイム司教の勢力が彼を武力によって駆逐した。スウェーデン王グスタフ・アドルフがドイツに上陸し、復旧勅令が取り消された後にベリースはこの担保領の奪回に成功した。1642年に2度目の打撃が彼を襲った。ヴァイマール騎兵がこの町に火をかけると脅迫してきたのである。ベリースは、金の鎖1本を残して全財産を失った。古い館の銘には、この夜66軒の家屋、城館、学校、多くの納屋や倉が焼失したと記されている。1660年にミュンヒハウゼン家は160年以上に及んだアエルツェンの抵当権を永久に失った。政庁は国有財産となった。官僚や書記達は引き続き19世紀半ばまで行政・司法を司っていた。1823年にアムト・アエルツェンは解体されたが、区裁判所(アムト裁判所)の管区として1854年に再建されたが、1858年には再び廃止された。1864年、アドルフ・マイヤーが Aerzener Maschinenfabrik を設立した。この会社は1907年からGmbH(有限会社に相当する)を称号とし、ロータリー機械製品や後にはディーゼルエンジン過給器を生産した。

行政[編集]

議会[編集]

アエルツェンの町議会は28議席からなる。

首長[編集]

町長はベルンハルト・ヴァーグナー (SDP) である。

文化と見所[編集]

シュヴェッバー城

建築[編集]

  • アエルツェン御料地の城砦
  • マリエン教会: プロテスタントルター派の教会で1642年に建設された。広くて明るい空間にバロック様式の調度が施されている。
  • ポステホルツ騎士領
  • シュヴェッバー城

スポーツ[編集]

2006年FIFAワールドカップ・ドイツ大会の際、シュヴェッバー城のアエルツェン・ミュンヒハウゼン城館ホテルにフランス代表チームが滞在した。滞在は6月8日からで、7月8日にチームは決勝戦に向けて旅立った(7月9日の決勝戦の後は直接フランスに帰国した)。公開トレーニングはハーメルンのヴェーザーベルクラントシュターディオンやアエルツェンのファイヒェンベルクシュターディオンで行われ、報道センターがハーメルンのラッテンフェンガーハレに設けられた。

この町には、サッカー、バレーボール、柔道の他ファウストボールの種目を有するスポーツクラブMTSVアエルツェン04をはじめ、多くのスポーツクラブがある。また、1972年に独立したハンドボールクラブとして設立されたハントバルフロインデン・アエルツェンe.V.や騎馬クラブ「ザンクト・ゲオルク」1949 e.V.が多彩なスポーツ活動の機会を提供している。

経済と社会資本[編集]

ライフライン[編集]

電力、ガス[編集]

2002年6月からE.ONヴェストファーレン・ヴェーザーAGがこの町の電力供給を担っている。ガス供給も同じくE.ONヴェストファーレン・ヴェーザーAGが担当している。

上水道[編集]

1956年からアエルツェンには、ヴュルムザー・ヴェクにある高架貯水槽を含む上水道網が整備されている。上水道流域は水利保護地区としてパトロールなどの保護が行われている。

上水道の運営は自治体が行っている。

交通[編集]

1979年頃のアエルツェン駅

道路[編集]

アエルツェンは連邦道B1号線に面している。現在この町を迂回するバイパス道路の建設工事が行われている。完成は2012年3月の予定である。

鉄道[編集]

アエルツェンは1980年まで旅客鉄道ラーガー・バーンによってハーメルンおよびビーレフェルト方面と結ばれていた。この路線を通る貨物鉄道も1994年に廃止され、この路線は撤去された。

地元企業[編集]

この地域最大の雇用主の一つが Aerzener Maschinenfabrik GmbH である。この会社は、スクリュー圧縮機ローターリー式送風機ガスメーターの世界的なリーダーカンパニーである。

世界規模で駆動技術・オートメーション技術の製品を生産している Lenze AG は本社をグロース・ベルケルに置いている。

この他に、Aerzener Landbrot GmbH もある。

参考文献[編集]

  • Heinz Georg Armgardt: Aerzen im Wandel der Zeit - Band 1-3. Geiger-Verlag Horb a.N. 1985
  • Horst-Rüdiger Marten: Die Entwicklung der Kulturlandschadt im alten Amt Aerzen des Landkreises Hameln-Pyrmont. Verlag Erich Goltze KG, Göttingen 1969

これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。

脚注[編集]

外部リンク[編集]