アイゼナハ車両製作所

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アイゼナハ自動車製作所Automobilwerk Eisenach AWE)は、かつてドイツアイゼナハに存在した自動車製造企業。ドイツで三番目の自動車製造であるアイゼナハ車両製作所Fahrzeugfabrik EisenachFFE)として誕生し、100年もの間に幾度も所有者の変更や時代の情勢に翻弄されつつも、工場での自動車の生産が現在まで続いている。この項では工場を巡る所有者変遷の物語が縦糸となり、横糸として以下のテーマが編みこまれる。

  1. アイゼナハに1896年に設立され現在まで続くあるひとつの工場の歴史である。
  2. 1898年から現在まではダイムラーベンツに次いでハインリッヒ・エアハルトがドイツで三番目に自動車製造をはじめたアイゼナハでの自動車製造の歴史である。
  3. 1903年から1932年までの29年間はヴィリー・ゼックがはじめた"Dixi"ブランドの全史である。
  4. 1927年から1932年までの5年間は英国オースチン・セブンのライセンス車"Dixi"の全史である。
  5. 1928年から1945年までの17年間はBMW社自動車製造業参入の物語である。
  6. 1948年から1991年までの43年間は東ドイツ自動車産業の歴史の一部である。
  7. 1991年からはGM傘下オペル社の歴史の一部となっている。

概要[編集]

1896年、兵器製造の「アイゼナハ車両製作所」として創業し、1898年フランス・デコヴィル(Decauville)社のライセンス生産を開始。ドイツで三番目の自動車製造会社となる。兵器から自動車までブランドはすべて「ヴァルトブルク」(Wartburg)だった。1903年、社名を「デキシー製造」と変え自社開発車をデキシーDixi)ブランドで製造販売した。第一次世界大戦後の1919年にゴータ(鉄道)車両製作所の子会社としてアイゼナハ製造工場となり、このとき英国オースチン社の"オースチン 7"のライセンス生産Dixiを引き続き製造した。1928年BMW社が自動車製造に参入するにあたり会社を買取し、オースチンとのライセンス生産を引継ぎ、これがBMWの自動車製造の基礎となった。1932年、BMWは独自開発に切り替えるが、第二次世界大戦後、ソ連の占領下となり工場はソ連軍に接収される。以後、東ドイツ国営企業となるが、ドイツ再統一を経て現在はオペル社の工場となっている。

1896-1903: アイゼナハ車両製作所 (Fahrzeugfabrik Eisenach)[編集]

アイゼナハ車両製作所(FFE)
時期 1896-1903 (7年間)
会社名 アイゼナハ車両製作所
(Fahrzeugfabrik Eisenach; FFE)
工場名 同上
リーダー ハインリッヒ・エアハルト
(Heinrich Ehrhardt)
ブランド ヴァルトブルク

アイゼナハドイツのほぼ中央に位置する都市である。ドイツが東西に分裂していた時代は東ドイツに属していたが、その西側は西ドイツに隣接していた。その昔は神聖ローマ帝国の領邦の一国、ザクセン=アイゼナハ公国であったが、1741年ザクセン=アイゼナハ公ヴィルヘルム・ハインリヒが死去すると、ザクセン=ヴァイマル公国との同君連合によってザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国となる。1871年1月18日ドイツ国の一部として統一され、1877年国号をザクセン大公国(Großherzogtum Sachsen)に改めた。

アイゼナハ車両製作所の由来は、アイゼナハにハインリヒ・エアハルトHeinrich Ehrhardt:1840年-1928年)が兵器製造工場を設立したことに始まる。アイゼナハ車両製作所(Fahrzeugfabrik Eisenach AG: FFE AG)は1896年に建設され、当初は大砲自転車を製造した。アイゼナハには、町の起源であり現在はユネスコ世界遺産である美しい古城・ヴァルトブルク城があることから、ブランド名は、ヴァルトブルク(Wartburg)とされた。

1898年、FFEはフランス自動車製造企業デコヴィルDecauville)社とライセンス生産の契約を結び自動車製造業に参入し、「ヴァルトブルク」ブランドで生産販売した。これによりFFEは、ダイムラーベンツに次いでドイツで三番目の自動車製造業者となった。車は2種類あり、4HP空冷もしくは5HP水冷の2気筒エンジン、およびトランスミッションは2速または3速だった。1899年に世界初の国際モーターショーベルリンで開催され、FFE社もこれに出展した。このときの販売数は10台足らずだったという。

会社はさらに技術に力をいれ、世間の評価も高まり、会社の株も三倍に上がった。主に息子のグスタフ・エアハルトが工場を取り仕切っており、従業員1300人規模のテューリンゲン地方有数の企業となっていた。ところが、FFE社は1903年にすでに財政に問題を抱えるようになり、エアハルトと彼の息子は会社を去る。エアハルトは故郷のZella-Mehlis(テューリンゲン州)に「エアハルト・アウトモビルAG(Ehrhardt-Automobil AG)」を設立し、新会社でデコヴィル社のライセンス生産を継続した。

1903-1919: デキシー製造社 (Dixi-Werke)[編集]

デキシー製造
時期 1903-1919 (16年間)
会社名 デキシー製造
(Dixi-Werke)
工場名 同上
リーダー ヴィリー・ゼック
(Willy Seck)
ブランド デキシー(Dixi)

会社は新たに社名をデキシー製造(Dixi-Werke)とし、1891年に新技術長としてヴィリー・ゼックWilly Seck)を招いた。ヴィリー・ゼックはGNOMロータリーエンジンを開発し、現在のロールスロイス・ドイツ社に続く会社で活躍していた自動車の先駆者である(また、ヴェスターブルク(Westerburg)出身のゼック兄弟の一人であり、ゼック兄弟は、1883年溶鉱炉事業を手はじめに、機械製作を経てエンジン製作を行い各所に工場を所有していた[1], [2])。この体制からDixiという車が生まれる。Dixiとはラテン語の「私は話した」という意味である。文語調で言えば「我語りけり」(「言う」の現在完了形 [3])。

Dixi車として代表的なものに1907年の"U-35"がある。これは4気筒7320ccで65PS以上を出力し最高時速85キロを出した。その走行性能と信頼性の高さですぐにすばらしい車と認められた。

第一次世界大戦中は自動車生産は中止され、軍用トラック、兵員輸送車、医療車両、銃器、運搬車両などを生産した。

1919-1928: ゴータ(鉄道)車両製作所 アイゼナハ車両製作所 (Die Fahrzeugfabrik Eisenach A.G.)[編集]

ゴータ(鉄道)車両製作所
アイゼナハ車両製作所
時期 1919-1928 (9年間)
会社名 ゴータ(鉄道)車両製作所
(Der Gothaer Waggonfabrik)
工場名 アイゼナハ車両製作所
(Die Fahrzeugfabrik Eisenach A.G.)
リーダー ゴータ(鉄道)車両製作所
ブランド デキシー(Dixi)

1918年第一次世界大戦の敗戦とともにドイツ革命が起こり、1919年ヴァイマル共和政となる。デキシー製造社は1919年に自動車生産を再開、1920年には旧大公国の境界線が拡大されテューリンゲン州が誕生した。テューリンゲンの首都はヴァイマルであり、この時期のテューリンゲンは政治の中心でもあった。しかしながら1921年、デキシー工場は経営不振となり、ゴータ(鉄道)車両製作所Gothaer Waggonfabrik AG)に買収され、ゴータ(鉄道)車両製作所アイゼナハ車両製作所(Der Gothaer Waggonfabrik die Fahrzeugfabrik Eisenach A.G. )となる。ただし、デキシーは"Dixi"ブランドとして継続して製造された。

1920年代のドイツは不況の時代で、当時の6/24と9/40の2つの大型モデルは販売が振るわず、会社は小型車市場への参入を考えるようになる。1927年に、会社はオースチン自動車と"オースチン 7"の製造販売に関するライセンス契約を結ぶ。オースチン 7は「ベイビー」ともよばれた小型車で1922年に登場しており好評だった。デキシー工場の契約内容は年間2000台を生産し、一台生産する度にロイヤリティー料を支払うという内容だった。

最初の100台は組立部品の供給を受けてノックダウン生産されたが、すぐにパーツもドイツで製造するようになり、リアル・デキシーといえる最初の"DA-1 3/25PS"が出荷開始される。"DA"とは"Deutsche Ausfuhrung(ドイツ仕様)"とも"Dixi Ausitin"ともいわれ、左ハンドル(LHD)でありDIN規格メートルねじで製造された。しかし、それは英国式の右ハンドル(RHD)でインチねじ使用のオースチンと変わるところはなかった(日本で同様のことをおこなうと「国産化」と呼ばれる)。複数種類あったシャーシが外部コーチビルダーに渡されて、クーペロードスターツアラーセダンとして架装された。Dixiは程よい大きさの小型車として、行商人のワゴン代わりに使われたほか、医者エンジニア、そして一般市民にも購入された。人気があり最も多く製造されたボディはツアラー(Tourers)だった。ツアラーは4人が乗れてセダンよりも安価だった。

1928-1945: BMWアイゼナハ工場 (BMW-Werk Eisenach)[編集]

BMWアイゼナハ工場
時期 1928-1945 (17年間)
会社名 BMW
工場名 アイゼナハ工場
ブランド デキシー(Dixi)、AM

1916年創業のBMW社は、1920年代末に自動車製造を目指し、時間のかかる自社開発より既存製品で市場性のあるものに狙いを定めライセンス生産しようとした。デキシー(Dixi)もその候補の一つだった。

BMWは、1928年10月1日(11月ともいわれる)にゴータ社からアイゼナハ製造工場を買収し、BMWアイゼナハ工場(BMW-Werk Eisenach)とする。

Dixi製"DA 1"をBMWは引き続き生産し、これがBMW最初の自動車となる。1932年、自社製作の"3/20 AM-1"を登場させた。62,864台がアイゼナハ工場で生産された。

第二次世界大戦1939年に始まると、戦時体制で軍用自動車、軍用モーターサイクル生産に切り替えられた。同時に、既存の自動車工場に加えて、飛行機エンジン工場も建設された。1945年の戦争終了時には工場の6割が破壊された。

1945-1948: SMAD(ソ連軍管理機関)による接収時期[編集]

1948-1991: 東ドイツ国営企業 VEBアイゼナハ社 (VEB Automobilwerk Eisenach)[編集]

VEBアイゼナハ社アイゼナハ工場
時期 1948-1991 (43年間)
会社名 VEBアイゼナハ社
工場名 アイゼナハ工場
リーダー 東ドイツ
ブランド BMW→EMW→AWE(ヴァルトブルク)

東ドイツ国営企業・VEBアイゼナハ社となり、東欧諸国向けに自動車を生産した。当初はBMWブランドで旧BMW車を生産したが、BMWの商標が使用できなくなったため、1951年にブランド名を"EMW"に変えた。最終的には1953年に"AWE"となり、工場発足時のブランド名・ヴァルトブルクWartburg)の名を冠した車が製造販売された。

1991-現在: オペル社アイゼナハ工場[編集]

オペル・アイゼナハ工場
会社名 アイゼナハ工場
時期 1990-
リーダー ゼネラル・モータース(GM)社
ブランド OPEL

東西ドイツの統一後、ゼネラルモーターズ傘下オペル社のアイゼナハ工場となっている。旧東ドイツの労働者の資質をベースにしてリーン生産方式カンバンなどのトヨタ生産方式MITの視点で解釈したもの)の試行を行ない、大変よい結果を収めたことでも有名である。

画像[編集]

統計資料[編集]

アイゼナハでの自動車製造 1898-1991[編集]

1898-1903 ヴァルトブルク(Wartburg-Motorwagen) 約250 FFE
1904-1927 Dixi-乗用車(PKW) 6.090 Dixi
Gothaer
1907-1927 Dixi-トラック(LKW) 2.622
1907-1928 Dixi-小型車(Kleinwagen) DA 1 9.308
1929-1942 BMW DA 2, DA 3, DA 4,
ヴァルトブルク(Wartburg-Sport) 303,
309, 315, 319, 319/1, 329, 320, 321, 325, 326, 327, 328, 335
78.768 BMW
1945-1950 ナーハクリークス(戦後世代)Nachkriegs-BMW 321 8.996 AWE
1946-1947 ナーハクリークス(戦後世代)Nachkriegs-BMW 326 16
1952-1955 BMW / EMW 327-1, 327-2, 327-3 505
1949-1955 BMW / EMW 340, 340-1, 340-2 21.083
1952 キューベルワーゲン(Kübelwagen) IFA EMW 325-3 166
1953-1956 EMW-IFA F9 38.782
1955-1965 ヴァルトブルク(Wartburg) 311/312 258.928
1957-1960 ヴァルトブルク(Wartburg-Sport) 313-1 469
1965-1966 ヴァルトブルク(Wartburg) 312-1 33.759
1966-1975 ヴァルトブルク(Wartburg) 353 356.330
1975-1988 ヴァルトブルク(Wartburg) 353 W 868.860
1988-1991 ヴァルトブルク(Wartburg) 1.3 152.775
総生産台数: 1.837.708

外部リンク[編集]