アイスレーベン

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紋章 地図
(郡の位置)
DEU Eisleben COA.svg Locator map MSH in Germany.svg
基本情報
連邦州: ザクセン=アンハルト州
郡: マンスフェルト=ズュートハルツ郡ドイツ語版
緯度・経度: 北緯51度31分00秒
東経11度33分00秒
標高: 海抜 114 m
面積: 143.81 km²
人口:

24,284人(2013年12月31日現在) [1]

人口密度: 169 人/km²
郵便番号: 06295
ナンバープレート: MSH
自治体コード: 15 0 87 130
市庁舎の住所: Markt 1 06295 Eisleben
ウェブサイト: www.eisleben.eu
上級市長: ユッタ・フィッシャー (Jutta Fischer, SPD)
郡内の位置
Lutherstadt Eisleben in MSH.svg
市庁舎と聖アンドレアス教会

アイスレーベンは、ドイツザクセン=アンハルト州の都市である。正式にはルターシュタット・アイスレーベン (ドイツ語: Lutherstadt Eisleben) と称し、マンスフェルト=ズュートハルツ郡ドイツ語版で2番目に大きな都市である。ハルツフォアラントドイツ語版東部にあたり、人口は約24,000人である。

マルティン・ルターが生誕し、死去した地として有名である。最も偉大な出身者を記念して1946年以降、都市名に「ルターシュタット(ルター都市)」を冠している。アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルター記念建造物群は、1996年からユネスコ世界遺産に登録されている[2]。アイスレーベンは、ルターシュタット連合に加盟している。アイスレーベンとヴィッテンベルクのルター関連施設は、ザクセン=アンハルト州ルター記念財団ドイツ語版にまとめられている。

地理[編集]

中心部はハレ (ザーレ)から西に30 kmにある。細長く伸びる低地は、アイスレーベン低地ドイツ語版と呼ばれ、マンスフェルト=ズュートハルツ郡の南東部に位置する。都市の領域はほとんどが農地である。地形はウンターリスドルフとオーバーリスドルフの間でマンスフェルト高原ドイツ語版、メッテルゲビルゲ高原の低い部分へ高さを増し、市街地は高原の主要地を占める。市街地の南部は森林が生い茂る丘陵であるホルンブルク鞍部ドイツ語版へと延び、南端のオスターハウゼン地区はほとんどヘルメ渓谷ドイツ語版にかかっている。

近隣の自治体[編集]

隣接する自治体には、北部ではゲルプシュテットドイツ語版、東部ではゼーゲビート・マンスフェルダー・ラントドイツ語版 、南部ではファルンシュテットドイツ語版クヴェーアフルトドイツ語版(両自治体ともザーレ郡ドイツ語版)、西部では、アルシュテットドイツ語版ボルンシュテットドイツ語版ヴィンメルブルクドイツ語版ヘルギスドルフドイツ語版ヘルブラドイツ語版クロスターマンスフェルトドイツ語版がある。

都市構成[編集]

中心市街地には、エルンスト=テールマン=ジードルングドイツ語版ヴィルヘルム=ピークジードルング(ネッケンドルフ[3] とオーバーヒュッテ[4]を含む)が含まれる。この他の地区は以下の通り。編入の日付[5][6][7][8][9][10]を付加する。

地区 人口 編入年月日 アイスレーベンの地区
Districts of Eisleben.svg
ヘルフタドイツ語版 約6,000 1960年1月1日
フォルクシュテットドイツ語版 1,271 2004年1月1日
ローテンシルムバッハドイツ語版 672 2005年1月1日
ヴォルフェローデドイツ語版 1,309 2005年1月1日
ポルレーベンドイツ語版 1,079 2006年1月1日
ウンターリスドルフドイツ語版 461 2006年1月1日
ビショーフローデドイツ語版 693 2009年1月1日
オスターハウゼンドイツ語版 1,031 2009年1月1日
シュマルツェローデドイツ語版 288 2009年1月1日
ヘダースレーベンドイツ語版 755 2010年1月1日
オーバーリスドルフドイツ語版 約200 2010年1月1日
ブルクスドルフドイツ語版 196 2010年1月1日

河川・湖沼[編集]

都市領域には、複数の小川が流れる。中心市街地には例としてベーゼ・ジーベンドイツ語版小川(「悪い7」の意)がある。フォアハルツから流れる7つの小川が合流したものであり、 以前は特に壊滅的な洪水をもたらしたことから「ベーゼ(悪い)」と名付けられている。ベーゼ・ジーベン小川は東へ流れ、ズュース湖 ドイツ語版(「甘い湖」)に注ぐ。他の河川には、北部のシュランツェ川ドイツ語版があり、ポルレーベンを源を発し北東に流れ、ザーレ川に 注ぐ。シュランツェ川も洪水時に特に急激に水位が上昇することがある。小さな河川としてはグルーメ川 (Glume) が挙げられる。ヘルブラ南部に源を発し、アイスレーベン東部でベーゼ・ジーベン小川に合流する。より小さな小川には、ラヴァーケ (Laweke) 小川があり、ヘダースレーベン地区に源を発し、東に流れる。美しい景観は、フォルクシュテット南部のヘーゲボルンバッハ (Hegebornbach) 小川による渓谷である。小川はフォルクシュテット西部に源を発し、アイスレーベン東部でグルーメ川に合流する。南部で重要な河川は、ローネ川であり、ボル ンシュテット付近に始まり、オスターハウゼン地区を流れる。

気候[編集]

アイスレーベン=ヘルフタの気候グラフ[11]

アイスレーベン=ヘルフタの平均気温は8.5℃であり、年間降水量は509ミリメートルである。 年間降水量は非常に低く、他のドイツ国内の観測値の中で下位の20分の1に含まれる。ドイツ気象庁の 観測地点のわずか2%が、これよりも低い値を観測している。最も乾燥した月は2月であり、降水量のほとんどは6月である。6月では2月に比べて1.9倍以 上の降雨がある。降水量はほとんど変化せず、年間を通じて非常に均等に分布している。これよりも低い季節変動が観測地点は、わずか7%である。

歴史[編集]

民族大移動期[編集]

3世紀から5世紀の民族大移動時代には、スエビ族の諸部族、アンゲル族ヴァルネ族ドイツ語版ホルシュタインシュレースヴィヒメクレンブルクドイツ語版の地から南方へ移動した。テューリンゲンまでのエルベ川ザーレ川の西部には、この移動が地名の語尾「-レーベン」からうかがい知ることができる。例えば、ハルデンスレーベンドイツ語版エアフルトの間にある約100の都市や村の名称がこうして生まれた。ヘルマン・グレースラードイツ語版 によると、「レーベン」はこの文脈では遺産、世襲地を意味する。地名の前部は、領主の種族と関連する[12]

5世紀には、移住者が先住のヘルムンドゥリ族ドイツ語版 と混交し、テューリンゲン族ドイツ語版の国に属していたが、この国は531年にフランク族によって滅ぼされた。北テューリンゲンはザクセン族が征服し、定住した。その後は、フランク族の諸王が、いくつかの地域にシュヴァーベンヘッセンフリースラントから農民を入植させた。こうしてシュヴァーベンガウドイツ語版ヘッセガウドイツ語版フリーセンフェルトドイツ語版といった地方名ができた[12]

中世[編集]

ファウル湖の水城[編集]

9世紀と10世紀には、いわゆる「ファウル湖(Faulenr See, 腐湖の意)」の西岸に水城 (Wasserburg) が建設された。994年11月23日付の文書にアイスレーベンの名が見られる。これは後の皇帝オットー3世によるもので、既に貨幣鋳造権、関税権を含む市場特権を持つ6か所の内の一つとしてであった。交易路の交差点に位置し、王の水城に守られて発展した市場町は、王の私有財産であり、周辺の村々からの税はここで徴収された[13]

ニンニク王[編集]

ニンニク王

1081年にはアイスレーベンでザクセン諸侯が、ザルム伯ヘルマン・フォン・ルクセンブルク(1053年 - 1088年)をハインリヒ4世の対立王に選出した選挙を承認した。なおヘルマンはこの時イタリアに滞在中であった。ヘルマンはアイスレーベンの水城を居城としたが、ハインリヒ4世がフリースラントから向けた軍勢に包囲された。エルンスト・フォン・マンスフェルト伯が援軍を遣し、フリース人を打ち破った。戦場は、長きにわたりフリース人通り (Friesenstraße) と呼ばれ、今日はフライ通り (Freistraße) となっている[14]。 1084年までヘルマンは、実際に王位に就くべく手を尽くしたが、十分な支持を集めることができず、街を去った。当時、城壁の前にたくさんのニンニクが生えていたことから、人々から「ニンニク王 (Knoblauchkönig, Knoblauchskönig)」と呼ばれた[15][16]。市庁舎の北側の壁にある砂岩の彫刻は、伝承によると[17]、ニンニク王を表したものである。今日、王は観光宣伝のイメージキャラクターとなっている。

都市として初の記録文書[編集]

1069年にはマンスフェルトに居城を持つマンスフェルト家ドイツ語版が、皇帝ハインリヒ4世からガウ伯領ドイツ語版を授けられた。アイスレーベンは間もなくこの伯爵領の中心都市へと発展した[13]。 1121 年から、マンスフェルト伯は、市政府のために都市代官を置いた。アイスレーベンが、初めて自主的に選出した市長を持ったのは1809年以降のことであ る。1150年頃、「ファウル湖」の干拓が始まった。居住地域の東端に位置する湿地帯であった。マクデブルクの司教ヴィヒマン (Wichmann) は、排水溝や堤防建設のため、フリース人フラマン人を招き、後のニコライ地区 (Nicolaiviertel) となる地に入植した。その痕跡は、今日でも例えば防塞付近のたくさんの堀や堤防に見て取ることができる[15]

12世紀の半ばには都市壁の建設が始められた、市場や周辺の通りを囲んでいた。壁は都市住民によって造られ、手工業組合ごとに持ち場が決められ、保守と防衛に責任を負っていた。門の警備は、都市が雇用した都市警吏ドイツ語版がその任に当たった[15]。この壁は市場といくつかの周辺の通りのみを囲んでいた。

1180 年にアイスレーベンは、初めて都市 (Civitas) として文書に記録された。都市代官 (Stadtvogt) のもとに市参事 (Consules) が12名が置かれていた。都市市民はマンスフェルト伯に貢納の義務を負い、都市の裁判権はその下に置かれた。現在までで知られる限り、最初にアイスレーベ ンで貨幣が鋳造されたのは、1183年のことである。教会の小教区には、聖アンドレアス小教区、聖ゴットハルト小教区があった[15]

銅鉱山の起源[編集]

1200年頃、ヘットシュテットにある銅山で銅鉱脈が見つかった。伝説によれば鉱夫ナッピアン (Nappian) とノイケ (Neucke) によるもので、今日ではマンスフェルト鉱山を象徴する人物となっている。当初、農民は自分の土地を採掘したが、間もなく産業となっていった。1215年に皇帝フリードリヒ2世は、マンスフェルト伯に鉱山支配権ドイツ語版を授け、1364年には、カール4世によって承認された[15] 。 鉱業は経済構造を変え、伯爵と都市、両者の富の基礎となった[15][13]

ヘルフタ修道院[編集]

シトー会のマリア修道院は、マンスフェルト伯ブルヒャルト (Burchard) 1世によって設立され、当初はマンスフェルト城ドイツ語版の 近くに建てられた。これにはアイスレーベンの聖カタリナ病院 (Katharinenhospital) が属していた。1234年に修道院は伯爵ブルヒャルトの未亡人によって今日のロスドルフ廃坑(アイスレーベンの北西、カタリーネンヘルツヒェン (Katharinenhölzchen , カタリーナ林の意)付近、1229年にはロートヘルスドルフ (Rodhersdorf)、直近にはロストドルフ (Rostdorff) と記された)に移されたが、マンスフェルト城付近という土地柄ではあったものの、賢明な選択ではなかった。この地は水の確保が非常に困難で、ロスドルフへ の移転は、芳しいものではなかった。

1258年、女子大修道院長であるゲルトルート・フォン・ハーケボルン (Gertrud von Hakeborn) の発議で、移転することとなった。彼女の兄弟のアルブレヒトとルートヴィヒは、ヘルフタに城と領地を所有していたため、ヘルフタの土地の一部を売却するよ う願い出た。こうして修道院は、現在のヘルフタ修道院ドイツ語版の地に移転した。この地は今日、アイスレーベンの一地区となっている。修道院は1284年にゲプハルト・フォン・クヴェーアフルト (Gebhard von Querfurt) による略奪にあった。

カタリーナ参事会農場 (Katharinenstiftgut) 管理者の家

1342年にブラウンシュヴァイク公爵が都市を包囲したが、失敗に終わった。この間、周辺の村や修道院が破壊された。その後、市壁の第5次拡張が開始された。修道院は、都市堡塁の端に移転された。今日の修道院広場の地である。しかし修道院の移転はここでも終わらなかった。1525年に「新ヘルフタ修道院」が農民戦争で蜂起した農民によって荒 らされると、女子大修道院長カタリーナ・フォン・ヴァッツドルフ (Katharina von Watzdorf) と修道女らは、差し当たりハレに逃げ延びた。その後、皇帝カール4世から命令が下された。メーレンに移り、その地に修道院を再建せよ、というのである。しかし同年の内に、マンスフェルト伯ホイアー4世 ドイツ語版は力を尽くして修道院を再建し、こうしてアルト=ヘルフタの地に戻ることができたのであった。しかしこの地も修道女にとって安住の地ではなかった。 宗教改革は1542年に、プロテスタントの 礼拝の導入を強制した。あらゆる手を尽くして、最後の女子修道院長ヴァルブルガ・ロイバース [Walburga Reubers) を筆頭に、信仰を忠実に守る女性たちをプロテスタントに改宗させようしたが、これに失敗すると、プロテスタントとなったゲオルク・フォン・マンスフェルト =アイスレーベン伯爵は、1546年に修道院を解散した。修道女は離散した。修道院の最後に残る記録は、1542年6月19日のものである。こうして破壊 された村々から多くの農民が、伯爵の許しを得て、ベーゼ・ジーベンドイツ語版小川(当時の呼称はヴィラーバッハ (Willerbach))の対岸へと移り住んでいった。ラムトーア通り (Rammtorstraße) には、今日、都市農民ドイツ語版の典型的な家屋が残る。修道院の再建が始まったのは、1998年のことである[15]

1498年の建設と都市火災[編集]

その後の100年は、繁栄の時代が続いた。ハルバーシュタット司教との確執から、1362年に都市は包囲されたが、堡塁で守り切ることができた。1371年には聖霊参事会 (Heilig-Geist-Stift) が初めて記録され、1408年には初の市庁舎が石造りで建設された。1462年には「聖ニコライ教会 (St.-Nicolai-Kirche)」 の聖歌隊席が聖別された。この教会は、ゴットハルト教会の基礎壁の上に建設されたものである。1433年にはマルクト広場に建つ、秤をもつ織物商館が記録 されている。今日のマルクト22番地に当たる場所である。1440年には、家屋所有者は530人、人口は4,000人を数えた。1447年に聖ペトロ=パ ウロ教会の塔の建設が始まり、ニコライ教会とアンドレアス教会のものは1462年に開始された。 1454年、市参事はマンスフェルト伯から、900ライン・グルデンドイツ語版の担保に、道路舗装に関する下級裁判を手に入れた。伯爵はその後、この担保を請け出すことができなかった[18]

ルター記念碑

1483年11月10日、マルティン・ルターがランゲガッセ (Lange Gasse) (郊外の橋地区 (Brückenviertel, trans aquam) )のマルティン・ルターの生家ドイツ語版で生まれた。今日はルター通り (Lutherstraße) となっている。明くる日、聖マルティヌスの日に、 聖ペトロ=パウロ教会で洗礼を受けた。ルター家がアイスレーベンに住んだのは、1484年の春までであった。しかしルターは、洗礼を受けたこの都市と終 生、関係を持ち続けた。近年、市政と観光業界は、この結びつきを大きく取り上げ、特に2017年の宗教改革記念年が当てはまる[19]

1480 年から1520年にかけて第二の都市壁が建設された。この場合、郊外のペトロ地区(農民)、ニコライ地区(フリース人)とヌスブライテ (Nußbreite)(鉱夫)が都市に加わった。1498年には、第一の都市壁内が壊滅的な火災に見舞われた。多くの住宅だけではなく、市庁舎も焼失 し、聖アンドレアス教会も損傷した。マンスフェルト伯は、5年間、税金を免除することとし、これにより住民の流出に歯止めをかけることができた。

歴史(概略)[編集]

アイスレーベンは997年、Islebiaという名の市場として初めて資料上で確認され、1180年には都市として言及されている。1780年に血統が断絶してザクセン選帝侯国の支配下になるまで、マンスフェルト伯ドイツ語版が統治していた。ナポレオン戦争後、ウィーン会議の結果、1815年にプロイセン領となった。第一次世界大戦後にはプロイセン自由州に属した。第二次世界大戦後にはドイツ民主共和国では、当初ザクセン・アンハルト州、次いでハレ県ドイツ語版に属した(ドイツ民主共和国の地方行政区画参照)。

1927年6月27日にアメリカの飛行家クラレンス・チェンバレンがアイスレーベン郊外の麦畑に着陸し、大陸間有人飛行を成功させた。これはチャールズ・リンドバーグの記録を2週間遅れで塗り替えるものだった。

姉妹都市[編集]

ゆかりの人物[編集]

宗教改革者ルターは1483年にアイスレーベンで生まれた。父親は農家であり、後に銅山での労働者であった。ルターは死に際して再びアイスレーベンへと戻っている[20]。 アイスレーベンにあるルターの生家などは、彼の活動拠点であったヴィッテンベルクと共に、「アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルター記念建造物群」として1996年に世界文化遺産に登録されている[21]

脚注[編集]

  1. ^ ザクセン=アンハルト州統計局 - 市町村別人口; 2013年12月31日時点 (PDF)
  2. ^ Deutsche UNESCO-Kommission e. V.: „Welterbeliste“
  3. ^ Neckendorf auf der Homepage der Lutherstadt Eisleben
  4. ^ Oberhütte auf der Homepage der Lutherstadt Eisleben
  5. ^  Statistisches Bundesamt (Hrsg.): Gemeinden 1994 und ihre Veränderungen seit 01.01.1948 in den neuen Ländern. Metzler-Poeschel, Stuttgart 1995, ISBN 3-8246-0321-7.
  6. ^ StBA: Änderungen bei den Gemeinden Deutschlands, siehe 2004
  7. ^ StBA: Änderungen bei den Gemeinden Deutschlands, siehe 2005
  8. ^ StBA: Änderungen bei den Gemeinden Deutschlands, siehe 2006
  9. ^ StBA: Änderungen bei den Gemeinden Deutschlands, siehe 2009, 1. Teil
  10. ^ StBA: Änderungen bei den Gemeinden Deutschlands, siehe 2010
  11. ^ Deutscher Wetterdienst, Normalperiode 1961–1990
  12. ^ a b Kurt Lindner: Lutherstadt Eisleben, Centrum des Mansfelder Kupferschieferbaus. Eisleben 1982.
  13. ^ a b c Marion Ebruy, Klaus Foth: Stadtführer Eisleben, Eisleben 2002.
  14. ^ Cyriacus Spangenberg: „Mansfeldische Chronik“/
  15. ^ a b c d e f g Burkhard Zemlin: „Stadtführer Lutherstadt Eisleben“
  16. ^ Brüder Grimm (Hrsg.): Deutsche Sagen. Zweiter Teil, Nicolaische Buchhandlung, Berlin 1818, S. 185 (Google Books)
  17. ^ Hermann Größler (nach Brüder Grimm): Sagen der Grafschaft Mansfeld und ihrer näheren Umgebung, Eisleben 1880, S. 2
  18. ^ B. Feicke: Die Grafen von Mansfeld als Stadtherren von Eisleben. Die Verpfändung der Niedergerichte 1454 an den Rat der Stadt. In: Harz-Zs. 61 (2009), S. 141-154.
  19. ^ de:Eckart Klaus Roloff: Luther, der Retter. (Kulturreportage über Eisleben). In: Rheinischer Merkur, Nr. 44/2007, S. 19.
  20. ^ 大貫隆ほか編 『岩波キリスト教辞典』 岩波書店、東京、2002年、1202頁。ISBN 4-00-080202-X
  21. ^ 古田陽久、古田真美監修 『世界遺産ガイド ドイツ編』 シンクタンクせとうち総合研究機構、広島、2005年、60頁。ISBN 4-86200-101-7

外部リンク[編集]