のし梅

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のし梅(のしうめ)はをすり潰し、寒天に練りこんだものを薄くのして乾燥し皮で挟んだ山形県村山地方の代表的な銘菓。

[編集] 歴史

山形藩主の典医だった小林玄端長崎での遊学中、中国人から梅を原料とする秘薬の製法を伝授され気付け薬として作ったのが現在の『のし梅』の原型とされる。その後は夏場の民間薬胃薬ないしは気付け薬として各家庭で製造されていた。

文献(『家伝秘法調合録』黒田玄仙)には、「甘露梅」という名でその作り方が残されているが、そこには「梅をおろして汁をとり、瀬戸物に入れ天日で干す」といった内容が記されており、現在の菓子としてのし梅とほぼ製法も変わらないことからその原型とみなされている。また、他にも同名の「のし梅」の名で葛を使ったものの記録も残っているが、明治初期に京都にて行われた博覧会に出展されたものの、日持ちが悪く評価も芳しくないことから、寒天の一般への流通と共に、江戸後期から明治初期において現在の形に成立していったと考えられている。

現在の形の「のし梅」を製造した祖とされているのが、創業文政年間の『のし梅本舗佐藤屋』(山形県山形市十日町)。日本三大修験山として江戸時代に盛り上がりを見せた『出羽三山詣』の参拝客の宿場町として山形市十日町近辺は栄えており、菓子として『のし梅』を売り出したところ人気を博したという。正岡子規の文献にも「山形の乃し梅」があり、日持ちの良さから全国的に流通していた事がうかがえる。既出の佐藤屋の大福帳には、日本国内はもとより朝鮮半島や満州への輸出記録も残っている。

なお、現在は茨城県の水戸や和歌山県など複数地域にて「のし梅」として類似品が販売されているが、薄いガラス板に流して作るという製法のもたらす均一な透明度の仕上がりや、各種文献への登場頻度、文献に登場する時期などからも山形のそれが最も古いものであると推察される。また、元祖とされる「乃し梅本舗佐藤屋」では、他店と違い、梅のものだけしか扱っていないが、ブドウなどその土地ならではの原料を用いた物も作られている。

[編集] 背景

山形県は紅花を主要な特産物として生産しており、その紅花は口紅や着物の染料として京都・大阪方面を中心に高値で取引されていた。その紅花から赤い染料を取るのに梅の酸が使われていた為、山形市周辺は紅花と同時に梅も盛んに生産されていた。梅は酸をとるためには青梅が良いが、完熟している梅だけを使用して作っている点では、農産物を無駄なく使用できるためにのし梅は非常に理に適った特産品といえる。

[編集] 関連項目

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