にしゃんた
| J.A.T.D.にしゃんた | |
|---|---|
| 本名 | J.A.T.D.にしゃんた(日本名は非公開) |
| 生年月日 | 1969年7月18日(42歳) |
| 出身地 | |
| 血液型 | O (Rh+) |
| 身長 | 175 |
| 方言 | 関西弁・京言葉・英語・シンハラ語 |
| 最終学歴 | 博士(経済学) |
| 師匠 | 鶴見良行・中村尚司・田中宏 |
| 事務所 | オフィス・トゥー・ワン |
| 現在の代表番組 | ペケポン |
| 過去の代表番組 | 世界一受けたい授業・おもしろ京都検定・極上!KYOTOグルメガイドなど |
| 作品 | 映画:地球のヘソ |
| 他の活動 | 羽衣国際大学准教授・講演講師・落語家 |
| 配偶者 | 有り |
| 親族 | 妻・息子・娘 |
| 公式サイト | にしゃんたOfficial HP |
J.A.T.D.にしゃんた(J.A.T.D. Nishantha、ජේ.ඒ.ටී.ඞී.නිශාන්ත、1969年7月18日 - )は、博士(経済学)、大学准教授(羽衣国際大学)、落語家[1]、タレント、京都府名誉友好大使、NPO法人多民族共生人権教育センター理事、講演講師。
スリランカのキャンディー市で生まれる。本名は、Jayasinghe Arachilage Thusithe Devapriya Nishantha(ジャヤシンハ・アーラッチラーゲー・トシタ・デーワップリヤ・ニシャンタ)。夜に産まれており、「にしゃんた」とは、自身の母語のシンハラ語で「静夜(英語で言うSilent night)」を意味する。
目次 |
[編集] 人物
親日家で、2005年10月5日に日本国籍を取得した。自身を平仮名で「にしゃんた」と表現する。もっとも大切にしている言葉が、セレンディピティ(英語:serendipity)である。「予期せぬ素敵な発見・出会い」の意味で使われる[2]。
あらゆる違い(性・年齢・障害の有無・民族・国籍・宗教・地域等などに限らず、一人一人の違い)を楽しみ、学び、力にする多様性の包括的社会参画 (Inclusion & social participation of Diversity) の利点や楽しさを語る。「民際」、「全員力」、「包み込む社会」などの言葉を用いる。あわせて外国出身者としての視点から見た多くの日本の魅力を紹介している。 多様性(多文化共生、ダイバーシティー)を自身の生涯のテーマとして位置づけ、訴えることになった最も大きな理由は、多様性を軽視された結果として引き起こされた母国、スリランカ内戦である。25年以上にわたった戦争で多数の学友を含む若人を死なせた辛い経験を有する。
落語やバラエティをこなす顔も持ち合せている。2008年には、2050年代の日本(京都)が題材になった映画『地球のヘソ』で主演俳優デビュー。同年、R-1グランプリでは、初めてにして3回戦進出を果たし、そのことがきっかけになり『笑っていいとも!』などのメディアを賑わす[3]。
さらに、2008年に桂春蝶 (3代目)(当時は桂春菜)に誘われ、原田伸郎や立原啓裕らと共に「ワッハ上方」にて高座デビュー、翌年には社会人落語日本一決定戦で全国362名の中から準優勝(2009年)を果たす。大会審査委員長であった、桂三枝に「あのマクラにはかてまへんな」と言わしめた。また、三枝が、自身のブログ上でも「社会人落語日本一は、あやうくスリランカ人が日本一になりそうでした。残念ながらよく受けたのですが持ち時間をオーバーして、減点となりました。なかなかよくやるスリランカ人で落語も外国人に脅かされてきました。」と紹介している[4]。社会人落語日本一決定戦において、大会開催以来3連続決勝戦に選ばれている。この大会は本人が全国ネットのテレビに露出する大きなきっかけにもなった[5]。また、上方落語にとどまらず、三遊亭好楽にも認められ、教えを受けている[6]。
母国を離れて世界で活躍している人物をドキュメントするNHKの国際放送NHKワールドの番組『A is AsiA』の第1回目の放送(2009年)で落語家としての活躍を世界85ケ国で紹介される。
社会人落語初代日本一決定戦をきっかけに自身の志を表現する手段としても落語に力を入れはじめ、社会人語家として本格的に全国行脚する。それまで行っていた講演活動に落語を組み合わせた新スタイルにも挑戦している。講演(+落語)の代表的なテーマは、「多文化共生“新”時代」や「違う人との出会いは学びと成長のパスポート」などである。
学問的な背景に支えられた見聞を解りやすく、身近な事例を取り上げて楽しく語りかける。茶目っ気たっぷりの明るいキャラクターがとくに関西を中心に人気を呼ぶ。講演会の講師として人気があり、年間100近くの講演を行っている(2009年の時点で)。
[編集] 来歴
ボーイスカウトの一員として、高校時代の1987年に初来日。それをきっかけに父親が家を担保にして作った7万円と片道切符を手に日本へ留学。来日(日本語勉学開始)1年で、非漢字圏出身者としては異例の日本語能力試験一級に合格。
経済学や経営学を学びたいという思いと、武道にも強く興味を持ち、文武両道の学生生活を送る。立命館大学には4年間、新聞奨学生をしながら通い、同学年に800人以上いた経営学部を学部総代で卒業した。卒業式では、和服姿で臨み、壇上で宙返りのパフォーマンスを演じ、大南正瑛総長が大きな拍手する等会場を沸かせ、そのタレントぶりを発揮している。また、大学在学中は、外国人弁論大会ですべて優勝したため「スピコン荒らし」のあだ名がつく。在学中に全国空手道連盟公認四段と指導員の資格を取得。
大学卒業後は大学院に進み名城大学で商学修士号、龍谷大学で経済学修士号、2003年に経済学博士号を取得。龍谷大学の中村尚司(地域自立経済学)、鶴見良行(民際学)や田中宏(在日外国人論)やスリランカ・コロンボ大学学長のW.D.ラクシュマン(スリランカ経済)に師事した。南アジア研究の第一人者の中村尚司を指導教授として頼った理由は、にしゃんたが17才でスリランカを離れているため母国のことがあまりにも解らないことに気づいたためである。
大学院在学中(2001年)に、在日少数言語を対象に多言語で情報を発信する携帯電話ポータルサイト「@nippon」運営を目的に株式会社グローバルコンテンツを立ち上げ、初代の代表取締役になる。経済学博士号取得した後、大学准(助)教授として、「国際経済論」「アジア経済」などをの科目を担当し、日本で学んでスリランカに持って帰るはずの経済学を日本の次世代に教える。7年間の山口県立大学准教授を経て、2010年より羽衣国際大学で准教授を務めている。
現在の職業に至った背景には、大学時代の二つの経験が関係している。一つは、ラグビーの試合で怪我をし、医師の誤診により治療が数年遅れ、足に障害が残ったこと。走るなどの運動が不自由となり、身体を活かした仕事は選択肢から消えていること[7]。そして、もう一つは、卒業時に日本の国際機関での就職を希望するも、国籍条項を理由に断られたこと。よって、大学卒業後は大学院に進むが、好きになった日本に残るための、消去法による決意だった。「経済学博士になり、大学教員になった自分を羨む人はいるが、途中の過程を考えたらむしろ哀れな人です。私は、日本にはまだ多様性の受容に対し閉鎖的な部分も残っており、改善の余地もあるということを露呈している皮肉な素材でもあると同時に、日本は外国出身者でも夢を実現できる素晴らしい国であることを証明している材料でもあります」。また「長い日本滞在は入国管理局の制度は窮屈だったが、今になって思うと入管は日本での特に学生時代の親代わりをしてくれてたような気もします。理不尽なところもある、頑固で厳しい親でしたが、今のような人間に自分を育てくれたかと思うと感謝したいと思う」と講演で語っている。
39歳で日本人と結婚しているが、妻の両親からは3つの理由で反対されている。1.肌色が褐色の孫は(日本の社会で虐められるから)困る、2.母国を捨てた人間は(結婚以前に日本国籍を取得していた為)妻や子をも捨てる可能性があるから信用できない、3.仏教で、長男であるのに実家の墓を守っていないことがだらしがない。後に結婚が許される際に妻の母から手渡された手紙をお守りにしている[8]。
大学教員の傍ら、テレビ・ラジオ出演、執筆活動を行う。また、ダイバーシティ(多文化共生)、生涯学習、町づくり、男女共同参画社会、子育てや人権などのあらゆる分野において講演活動を精力的に行なう。難しいこともいかに楽しく笑いを通して伝えられるかをモットーにしている。専門的内容も、人生の前半は親日国のスリランカで、後半が日本の都会と地方の両方で生活して肌で感じたことなどをもユーモアたっぷりに京言葉・関西弁交じりの日本語で語る。
社会活動として、献血センターの一日所長を務めており、献血ルームにて「にしゃんた献血落語会」を開催している[9]。
ライフワークとして「民際交流」、「共生社会づくり」や「日本再発見」などをキーワードとした活動を行っている。
[編集] エピソード
- 日本への最初の接点は母国で見たテレビドラマの『おしん』だった。
- 子どもの頃は、道中、象の数を数えながら牛車で幼稚園に通った。
- 滋賀県の雄琴温泉で布団引きのアルバイトをしながら日本語学校に通っていて、借金を抱え流れてきたような訳ありの傷ついた人たちに育てられた。
[編集] 学歴
- 1993年3月 - 立命館大学経営学部卒業(学部総代)
- 1995年3月 - 名城大学大学院商学研究科修士課程修了(商学)
- 1996年3月 - 龍谷大学大学院経済学研究科修士課程修了(経済学)
- 2001年3月 - 龍谷大学大学院経済学研究科博士後期課程単位取得満期退学
- 2003年3月 - 博士(経済学)
[編集] 著書
- 『留学生が愛した国・日本』単著,2002年5月16日,現代書館。
- 『Japanese Management in Sri Lanka 』reality or wishful thinking,単著,2005年4月,Karunaratne & sonsSri Lanka.
- 「国際化時代における日本の経営学教育への提言―スリランカと日本のはざまで」『外国人教授が見たニッポンの大学教育:これでいいのか経営学の教え方・学び方』単著,2003年9月,中央経済社。
- 『The Distant Neighbors』「Japanese style of Management in Sri Lanka」単著,2003年5月,Sri Lanka Association of Economics.
- 「隣国スリランカと日本への期待」単著,2003年11月,『未来経営』フジタ研究所。
- 『日本的経営は海を越えられたか!?』単著, 2006年2月,ふくろう出版。
- 『スリランカからのことづけ』共著(ビデオ作品),2005年3月,One-Asia・Hot-Heart。
[編集] 論文
- 「The Adoption of Japanese System of Management in Business out side Japan: The Case of Sri Lanka」,単著,2002年3月31日提出済,博士論文(龍谷大学)。
- 「スリランカにおける日系企業の経営-平等主義の日本的経営は階層社会に通用するか-」単著,1998年10月,『経済学論集―龍谷大学』38巻,第2号。
- 「スリランカ日系企業における従業員の意識」単著,1999年6月,『経済学論集―龍谷大学』39巻 第1号
- 「スリランカ日系企業の経営に関する考察-日本人駐在員に対するアンケート調査を中心に-」単著,2000年3月,『経済学論集―龍谷大学』39巻,4号(民際学特集)
- 「Japanese Style of Management and its Possibilities of Internationalization」単著,2000年7月,『経済学論集―龍谷大学』40巻,第1号
- 「 Liberalization and FDI in a Small Country - The case of Sri Lanka -」単著,2000年8月『経営学論集―龍谷大学』40巻,第2号
- 「Problems and Prospects of Investment in a Small Economy: The Case of Japanese Investments in Sri Lanka」単著,2001年12月,『経済学論集―龍谷大学』第41巻,3号
- 「Comparative Studies of International Management The case of Management Culture in Sri Lanka」単著,2004年2月『山口県立大学国際文化学部論集』10号
- Japanese-style Human Resource Management in Sri Lanka-The Case study of Usui Lanka (Pvt.) Ltd.,単著,2004年3月『経済学論集-龍谷大学』43巻4号
- 「Japanese-style Human Resource Management in Sri Lanka―The Case study of Noritake Lanka (Pvt.) Ltd.,単著,2006年3月,『山口県立大学国際文化学部紀要』第12号
- 「Possibility of internationalization of Japanese Style of Management to Asia-research Review」,単著,2005年3月『山口県立大学国際文化学部紀要』第11号
- 「共生を求められた日本の国際化の課題-スリランカから帰化した者の民際的な視点で-」,単著,2007年3月『山口県立大学国際文化学部紀要』第13号
[編集] そのほか
- 「日本的経営の海外移転の限界と日本企業側の要因」単著,2002年5月『アジア経営研究』第8号
- 「日本における外国籍住民生活実態調査と地域の課題について-異文化間ネットワークの必要性について」 共著,2004年2月『山口県立大学国際文化学部論集』10号
- 「『TSUNAMI現場から日本へことづけ』―在日の被災地出身者の走り書き記録―」単著,2006年3月『山口県立大学国際文化学部論集』12号
- 「スリランカ内戦と解決のための日本の役割」単著,2007年3月『山口県立大学国際文化学部論集』13号
[編集] 学会発表
- 「スリランカにおける日本的経営に移転可能性について」単, 1998年6月, アジア経営学会西部部会(於龍谷大学)
- 「スリランカの経済開発における外国直接投資」単, 1998年10月, 国際開発学会全国大会(於龍谷大学)
- 「スリランカ日系企業の労務管理に関する考察」単, 1999年11月, アジア経営学会全国大会(於龍谷大学)
- 「日本的経営の海外移転の限界と日本企業側の要因―スリランカの調査を通して-」単, 2001年10月, アジア経営学会全国大会(於立命館大学)
- 「日本におけるエスニックビジネスの可能性について―現状展望及び社会の壁―」単, 2001年10月, 工業経営研究学会全国大会(於龍谷大学)
- 「異文化の中の日本的経営」単,2005年7月2日,日本国際文化学会
- 「スリランカから日本へのことづけ-ツナミから学ぶ-」共, 2005年10月3日, 日本南アジア学会
- 「スリランカから日本へのことづけ(続編)」共, 2006年10月7日, 日本南アジア学会
[編集] そのほか
- 「ツナミ 貧しい漁民直撃」 単著 2006年4月28日 『朝日新聞』
- 「信仰を支えに心は前向き」 単著 2006年4月29日 『朝日新聞』
- 「市民レベルの支援期待」 単著 2006年4月30日 『朝日新聞』
- 「真の支援 人材育成急の」 単著 2006年1月17日 『中国新聞』
- 「被災地に温もり伝える」 単著 2006年1月24日 『中国新聞』
- 「心豊かな学問教えたい」 単著 2006年1月31日 『中国新聞』
- 「こころもからだもぽっかぽか」 単著 2006年2月7日 『中国新聞』
- 「挨拶は暮らしの潤滑油」 単著 2006年2月14日 『中国新聞』
- 「学べる幸せかみしめて」 単著 2006年2月21日 『中国新聞』
- 「手に持たぬ美学 和の心」 単著 2006年2月28日 『中国新聞』
- 「会話弾めば心にも栄養」 単著 2006年3月7日 『中国新聞』
- 「国渡り歩く若人を応援」 単著 2006年3月14日 『中国新聞』
- 「異郷学ぶ絶好の教科書」 単著 2006年3月28日 『中国新聞』
- 「平仮名表記で問題提起」 単著 2006年4月4日 『中国新聞』
- 「くせで再認識する己」 単著 2006年4月11日 『中国新聞』
- 「愛情感じ違いを楽しむ」 単著 2006年4月18日 『中国新聞』
- 「心豊かな母国では不要」 単著 2006年4月25日 『中国新聞』
- 「歴史に埋もれた[功績]」単著,2006年5月2日『中国新聞』
- 「若者よ世界へと羽ばたけ」単著,2006年5月9日『中国新聞』
- 「New Comer」から見た「Old Comer―忘れられた国際人―」単著,2000年8月『百色百光』第3号
- 「国際化の裏で根強い外国人差別」単著,1998年8月27日 『朝日新聞』
- 「いくら国際交流を重ねても」単著 1998年12月3日 『朝日新聞』
- 「留学生しか歓迎しないの」単著 1999年3月18日 『朝日新聞』
- 「途上国の人に冷たい対応」単著 1999年5月13日 『朝日新聞』
- 「マイノリティーに法の光を」単著 1999年7月15日 『朝日新聞』
- 「本名のまま生きる韓国人三世の友人」 単著 1999年10月15日 『朝日新聞』
- 「国際交流は盛んだが、企画は日本人向け」単著 1999年12月3日 『朝日新聞』
- 「変な『異文化理解』身近な人と共生を」 単著 2000年1月28日 『朝日新聞』
- 「暮らしにくい日本外国籍の子支援を」 単著 2000年3月31日 『朝日新聞』
- 「留学生は管理の対象なの?」 単著 2000年6月16日 『朝日新聞』
- 「中国に残る日本侵略のつめ跡」 単著 2000年10月13日 『朝日新聞』
- 「武士道精神に欠ける戦後補償」 単著 2000年12月15日 『朝日新聞』
- 「外国人にも印鑑なぜ強要?」 単著 2001年2月13日 『朝日新聞』
- 「携帯電話が壊れても一大事」 単著 2001年3月23日 『朝日新聞』
- 「片言の外国人は『怪しいもの』?」 単著 2001年7月13日 『朝日新聞』
- 「友よ、『先見の明』ある君に敬服」 単著 2001年9月21日 『朝日新聞』
- 「いつまで?脱亜入欧」 単 著 2001年9月21日 『朝日新聞』
- 「病気で知る共生の道のり」 単著 2002年1月11日 『朝日新聞』
- 「しかることを忘れた学校」(新世界が見えてくる大阪) 単 著 1998年8月23日 『産経新聞』
- 「踏み台にせず真の交流を」(新世界が見えてくる大阪) 単 著 1999年3月14日 『産経新聞』
- 「外国人の人権にも関心を」 単著 2000年4月22日 『読売新聞』
- 「アジアが求めるニッポン~次世代からのメッセージ~ 他,単著,1998年10月等,NHK衛星第1等
- 「京町家風☆にしゃんた」単著,2001年11月16日『 NHK-DIG 』
[編集] 学会及び社会における活動等
- 初代京都府名誉友好大使 (現在に至る)
- 京都ユースホステル協議会評議員 (現在に至る)
- 関西留学生新聞 編集委員長 (2003年迄)
- 全国空手連盟京都府審判員 (現在に至る)
- 全国空手連盟京都府指導員 (現在に至る)
- 京都立誠空手道場 主宰
- NPO One-Asia (one-asia.com)主催
- 日本国際文化学会 (現在に至る)
- 日本南アジア学会(現在に至る)
- 日本経営学会会員
- アジア経営学会会員
- 国際開発学会会員
- 工業経営研究学会会員
- 関西留学生新聞 編集委員長 (2003年迄)
- 全国空手連盟京都府審判員 (現在に至る)
- 京都市基本構想等審議会審議員 (2001年3月迄)
- 京都市外国籍市民施策懇話会 懇話員 (1999年3月迄)
- (特別非営利組織)多文化共生センター理事 (2004年迄)
- 21世紀京都市幕開事業企画委員会 企画・実行委員 (2000年5月迄)
- 特定非営利活動法人:OSAKAすいた国際交流芸術文化協会 設立代表者
- (特別非営利組織)多文化共生センターきょうと代表 (2003年)
- 多民族共生人権教育センター理事 (現在に至る)
- 献血ルーム一日所長(京都:2007年11月5日)
- 「にしゃんた献血友の会」発足 (2007年~現在に至る)
- 京都府消防応援団 団員 (2008年~)
[編集] 主な出演番組
- 日本テレビ系列『世界一受けたい授業』(世界のコクミンSHOW)
- フジテレビ系列『ペケ×ポン』(ペケタレ)
- フジテレビ系列『たけしのニッポン人白書』
- フジテレビ系列『Mr.サンデー』
- NHK衛星第1 『BS討論 アジアが求めるニッポン~次世代からのメッセージ?』パネラー
- NHKテレビ 『とっておき関西』ひるどきDIGスペシャル司会進行
- NHKテレビ 『とっておき関西』ゆうがたDIGスペシャル司会進行
- NHKテレビ 『まるごと関西』 (大人の遠足)レポーター
- NHKラジオ 『ラジオ深夜便』『フレッシュ・トーク』『関西ラジオ夕刊』『関西ラジオワイド』等
- テレビ東京系列『日経スペシャル 未来世紀ジパング〜沸騰現場の経済学〜』
- 関西テレビ 『スーパーニュース アンカー』(コメンテーター)
- MBSテレビ 『あつまりーな大阪』 リポーター(特番)等
- テレビ大阪 『??? (はてな)』レギュラーリポーター等
- NHK BS1テレビ 『ほっと@アジア』ゲスト
- 読売テレビ 『日本縦断旅:有馬温泉編』総司会等
- 関西テレビ・関西テレビ☆京都チャンネル『葵祭』コメンテーター、レポーター、『紅葉生中継』レポーター等
- NHKテレビ『ぐるっと関西』(大人の遠足)レポーター、コメンテーター
- 中部日本放送『お宝発信タワー DAI-NAMO』
- KBS京都『ダルコロ』メインパーソナリティー
- KBS京都・関西テレビ☆京都チャンネル『京都!ちゃちゃちゃっ』コメンテーター
- KBS京都・関西テレビ☆京都チャンネル『おもしろ京都検定』コメンテーター
- KBS京都・他『桑原征平のおもしろ京都検定』ゲスト・回答者
- KBS京都『京都ふらり』レポーター
- J-com 『ごきげん☆ちゃんぷる』メイン パーソナリティー等
- 関西テレビ『京都グルメナイト』司会進行
- 関西テレビ『極上・京都グルメガイド』司会進行
- 関西テレビ☆京都チャンネル『京都グルメナイト』司会進行
- 関西テレビ☆京都チャンネル『極上・京都グルメガイド』司会進行
- 朝日放送『おはよう朝日です』レポーター等
- ラジオ大阪『桂九雀のワイワイじゃーなる』等
- 山口朝日放送 『ほっと土曜日』(生放送レポーター)等
- TBS『あらびき団』
- 映画 『いちげんさん』
- 映画 『地球のヘソ』主演(2008年封切)
- ワッハ上方にて「落とし頃なお年頃 芸能界落語部」で落語デビュー。演目は『時うどん』(2008年)
- R-1ぐらんぷり3回戦進出。(2009年)
- フジテレビ『森田一義アワー 笑っていいとも!』(2009年)
- 朝日放送『地元応援バラエティ このへん!!トラベラー』
- NHK WORLD『A is AsiA』(世界の85ヶ国で放送)
- NHK総合『セカイでニホンGO!』(2011年)
[編集] 賞罰
- 1989年10月 ボーイスカウト指導者ウッドバッジ
- 1989年12月 日本語能力検定試験1級
- 1992年3月 第2回京都府留学生スピーチコンテスト「自由題」 最優秀賞
- 1992年12月 京都市国際交流会館主催・外国人による日本語弁論大会 「国際化と京都への提案」 最優秀賞
- 1993年9月 第14回留学生の主張日本語による在日留学生弁論大会(全国大会)「21世紀への提案」最優秀賞
- 1994年2月 日本拳法二段
- 1994年3月 講道館柔道初段
- 1995年6月 名古屋内外学生センター主催 第9回「アルバイト体験発表論文」「心の豊かさを求めて」 最優秀賞
- 1995年11月 龍谷大学留学生別科10周年記念第6回 「日本語弁論大会」「はじめの一歩」 最優秀賞
- 1995年11月 第20回 関西地区外国人留学生による「日本語弁論大会」「世界の民族問題」 最優秀賞
- 1997年10月 全日本空手連盟指導員免許取得
- 1997年10月 全日本空手連盟公認四段
- 1997年11月 第18回神戸市長杯バイリンガルスピーチコンテスト(日・英―全国大会)「平和を考える-ラグビー・フィフティーンに捧げる」 最優秀賞
- 1997年12月 京都内外学生センター主催 第1回「アルバイト体験発表論文」「真の国際交流とは」 最優秀賞
- 1998年5月 内外学生センター主催全国大会「アルバイト体験発表論文」(全国大会)「真の国際交流とは」 最優秀賞
- 1998年10月 全国空手連盟京都府審判員
- 1998年12月 京都市自治100周年記念『 京都元気大賞 』(全国大会-応募者8500作品中)「三条大橋」最優秀賞
- 2001年6月 新世紀かがやき交流賞 (京都府開庁記念日記念式典において代表を務める多文化共生センターきょうとの地域における多文化共生に関する社会貢献に対して受賞)
- 2004年10月 国際化推進特別感謝状(京都市自治記念式典において京都市の国際交流及び多文化共生への貢献に対して表彰)
- 2009年 8月 社会人落語初代日本一決定戦準優勝
- 2010年10月 第二回社会人落語日本一決定戦決勝進出
[編集] 関連項目
- アントン・ウィッキー - 年代は異なるも来歴のよく似るスリランカ出身のタレント・大学教員。
[編集] 出典
- 『留学生が愛した国・日本』単著、2002年5月16日、現代書館。
- 「『共生を求められた日本の国際化の課題』-スリランカから帰化した者の民際的な視点で-」[10]。
- 違いを束ね、太い一本に アジアを語る―J・A・T・D・にしゃんたさんに聞く(朝日新聞)
- 本人の複数の講演の記録や上述のコラムなど。
[編集] 脚注
- ^ 社会人落語家として活動している。
- ^ この言葉はかつての自身の母国の国名であったセイロン島の語源であるとも言われている。
- ^ 持ちネタには、吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」の替え歌の「ジェロでもねぇ、オバマでもネェ、どれにもそれほどに似ていねぇ・・・」などがある
- ^ 席亭桂三枝の落語的日常 2009年8月16日
- ^ ペケ×ポン川柳などはその代表的な番組で、落語大会の際と同じ黄色い着物で毎回登場している。褐色に黄色い着物がトレードマークと化している。
- ^ 関西での生活が長いにしゃんたにとって上方落語が覚えやすいが、敬意を表し好楽から教わったネタを江戸弁でかけている。枕までが関西弁なのに、ネタに入り次第、江戸弁に切り替わることが観客に驚かれるときがある。
- ^ 7回にわたる手術の最後は骨切手術で、現在は、左右の足の形はそれぞれX脚とY脚になっている(『留学生が愛した国・日本』より)
- ^ 講演の後半、この手紙を胸の内ポケットから取り出して読み上げることがある。
- ^ 京都府赤十字血液センターニュース
- ^ 『山口県立大学国際文化学部紀要』第13号(2007年3月)