だれのものでもないチェレ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
だれのものでもないチェレ
Árvácska
監督 ラースロー・ラノーディ
脚本 ユディット・エレク
ラースロー・ラノーディ
原作 ジグモンド・モーリツ
出演者 ジュジャ・ツィンコーツィ
ヨージェフ・ビハリ
アンナ・ナジ
マリアン・モール
音楽 ルドルフ・マロシュ
撮影 シャーンドル・シャーラ
配給 日本の旗 パイオニア映画シネマデスク
公開 ハンガリーの旗 1976年3月4日
日本の旗 1978年3月17日
日本の旗 2010年1月30日(再映)
上映時間 89分
製作国  ハンガリー
言語 ハンガリー語
テンプレートを表示

だれのものでもないチェレ』(ハンガリー語: Árvácska[1], 「みなし児」の意[2])は、1976年(昭和51年)製作・公開のハンガリー映画である。

概要[編集]

ハンガリーの作家ジグモンド・モーリツ(英語版[3]による1940年発表の中篇小説『Árvácska』を、同国の映画監督ラースロー・ラノーディ(英語版)が映画化した作品。1930年代初めのミクロシュ・ホルティ政権下において一人の孤児の少女チェレがどう生き、どうなったかを描いている。なお、チェレという名前は少女の本名では無い[4]

製作過程[編集]

チェレ役の少女は監督が自ら一年かけて七千人の少女と面接して探し出している。当初はチェレと同じ孤児から選ぶ事を考え、二千人の孤児と面接を行ったが、孤児院の規則により孤児たちがマッチの扱い方を知らないためラストシーンが撮影出来ないといった問題もあって上手くいかず、その後舞台と同じ農園在住の児童五千人と面接して四十七人を候補に絞り、セリフのテストでさらに六人に絞り込み、最後のカメラテストでツィンコーツィを選んでいる[2]

原作は、1936年の夏に投身自殺をしようとした19歳の少女からモーリツが話を聞き、その少女が語った事実に沿って小説化したものであり、映画もその原作小説をほぼ忠実に踏襲している[2][5]

公開[編集]

1976年に製作国であるハンガリーで劇場公開され、入場者数が100万人に到達。さらにその後テレビ放映され、400万人が視聴した[6]。同年、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭監督賞、ハンガリー映画批評家賞を受賞している。日本ではエキプ・ド・シネマ5周年記念作品第26回ロードショーとして1979年[7]岩波ホールで上映された。日本映画ペンクラブ及び厚生省(現在の厚生労働省)中央児童福祉審議会の推薦を得ている[2]

2010年1月現在、製作国であるハンガリーではビデオテープ及びDVD等によるパッケージソフトの販売が行われている[8]。日本では、2010年1月30日からニュープリントによるリバイバル公開が行われ[9]、2015年10月に幻の映画復刻レーベルDIG[10]より日本国内でのDVDリリースが決まった。

キャスト[編集]

あらすじ[編集]

1930年代初頭のホルティ独裁政権下のハンガリー。チェレと呼ばれる孤児の少女が富農に引き取られ、着る物も与えられず学校にも通わせてもらえず、牛追いや荷役をさせられていた[11]

ある日、近隣に棲むピシュタという男に強姦され、泣きながら帰ったが、養親はそれを大して気にも留めなかった。その後、畑の西瓜を盗んで食べ、その殻を帽子代わりにしていたところ、養家の実の娘がその帽子を欲しがり、チェレは帽子をその娘の服と交換した。しかし家に帰ると養親は怒って服を剥ぎ取り、さらに西瓜を盗み食いした罰として養父から焼けた石炭を手に握らされる。

こうした日々の果て、チェレは養家から逃亡し、たどり着いた家の人によって孤児院に連れて行かれる。そこで再び別の養親に引き取られたが、今度は服は奪われなかったものの、使役と虐待はそれまで以上に辛いものだった。チェレはその養親から土地を騙し取られて下男として働いていた老人ヴェン・イシュテンと牛小屋に住む事になった。老人はチェレを可愛がり、教会にも連れて行ったが、その帰り道に老人が顔見知りの憲兵と立ち話をしている場面を養母ジャバマリが目撃する。自分の所業を告げ口したと誤解したジャバマリは老人を密かに毒殺し、さらにその後チェレも毒殺しようとする。しかしチェレがそうとは知らずに毒の入ったミルクをジャバマリの実の子である赤ん坊に分け与えようとしてジャバマリが狂乱した事から毒殺の件が夫にばれ、チェレは難を逃れる。

クリスマス。チェレは一人、牛小屋で紙人形を一つ飾ったツリーの前で藁に灯火をともすが、その火が燃え広がり、牛小屋は火に包まれた。その火が夕日と重なり、物語は終了する。

脚注[編集]

  1. ^ Árvácska [ˈɑ̈ːrvɒt͡ʃkɒ] アールヴァーチカはハンガリー語で女性の名前。ほぼ日本語の女性の名前の「すみれ」に当たる。元々は普通名詞の árvácska [ˈɑ̈ˑrvɑ̈ːt͡ʃkɒ] で、スミレ属 (Viola) の総称、特に 「胡蝶すみれ、パンジー」( Viola × wittrockiana) を指す。語源的には árva [ˈɑ̈ːrvɒ] 「孤児(みなしご)」に指小辞の -cska [t͡ʃkɒ] の付いたもの。
  2. ^ a b c d 岩波ホール上映時の劇場パンフレットの記述より。
  3. ^ ただし、ハンガリー語は姓を先、名を後にして記述するので、厳密には Móricz Zsigmond となる。以降のハンガリーの関係者も同様。なお、関連リンクにあるハンガリーのビデオソフト販売ウェブサイトの当該作品紹介画面では、関係者の姓名がその順序で表記されている。
  4. ^ 最初の家から逃げたあと助けを求めた家で少女がチェレと名乗ると、即座に「本当の名前は何か?」と問い返され、答えられなかったシーンがある。同作の岩波ホール上映時パンフレットで作品研究を担当した清水千代太は、同研究文の中で「映画をみていると、これは孤児に対する蔑称である事が分かる」と意見を述べている。
  5. ^ ただしパンフレットの解説によれば、映画ではチェレが二軒の家に預けられた設定になっているのに対し、原作ではチェレが三軒の家を渡り歩いている。また原作ではその一軒で火事が起こったものの、チェレは死ななかったという違いがある。
  6. ^ 岩波ホール上映時の劇場パンフレットに掲載された監督へのインタビューより。
  7. ^ 2010年リバイバル公開公式ウェブサイトより。劇場公開時パンフレットは1979年3月17日に発行されている。
  8. ^ http://www.mokep.hu (ハンガリー語), 2010年1月31日閲覧。
  9. ^ だれのものでもないチェレ、作品公式ウェブサイト、2010年1月31日閲覧。
  10. ^ 幻の映画復刻レーベルDIG
  11. ^ パンフレットの解説によれは、同政権下では孤児たちを養育費付きで養子に出し、富農たちは労働力確保の為に、競って孤児を引き取った。

外部リンク[編集]