ぜんじろう

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ぜんじろう
本名 金谷 善二郎
(かなたに ぜんじろう)
生年月日 1968年1月30日(42歳)
出身地 Flag of Japan.svg 日本兵庫県姫路市
血液型 B型
最終学歴 大阪芸術大学芸術学部
デザイン学科中退
師匠 上岡龍太郎
出身 NSC5期生
コンビ名 かなめ・ぜんじろう(1988年 - 1989年)
グループ名 しねしね団(後の吉本印天然素材
事務所 吉本興業
同期 辻本茂雄
亀山房代
前田勝(ティーアップ) ほか
公式サイト ZENJIRO.COM
受賞歴
1998年:第5回 L.A.Comedy Store Stand Up Competition 第2位及びモストユニーク賞受賞
  

ぜんじろう1968年1月30日 - )は、吉本興業に所属する日本お笑いタレント。本名:金谷 善二郎(かなたに ぜんじろう)。兵庫県姫路市出身。血液型B型兵庫県立姫路南高等学校卒業、大阪芸術大学芸術学部デザイン学科中退。師弟関係の上では、上岡龍太郎の弟子という位置付けにある。

目次

[編集] 来歴

[編集] デビュー前

親元から離れたいがための口実で、高校3年生の時に大阪芸術大学デザイン学科の入学試験を受験。高校時の成績は451人中の451番。入試の日まで大学がどこにあるのかも知らなかった。入試会場に遅刻して入場し、花瓶を描くという実技試験の内容に対し、「どうでもええわ」と花瓶のみならず教室全体までも絵にした。面接試験時に面接官の教授から「なぜ周りの風景も書いた?」と聞かれ、「見る物全てが芸術ですから」と答えた。それに驚いた教授が「いつから絵を?」と尋ねると、今度は「中2の時スペインに行ってからです」と答えた。教授から「私もだよ!」と賛同され、倍率30倍という難関の同校入学試験に易々と合格した。嘘をついて合格を勝ち取ったことから「自分は口で仕事が出来るんだ」と思い込み、同校を入学後わずか2日で退学した。本人のインタビューによると、「ハナからデザインに興味などないし、通う気などなかったが、親が大学に支払う授業料が欲しくなり、自分の懐に入るように細工していた。おかげで仕送りも含めて、バレるまで悠々自適の生活」であったそうだ。

大阪で友人と遊んでいた時に偶然上岡龍太郎に出会ったが、ぜんじろうもその友人も上岡を浜村淳と間違えていた。「あれ? 浜村淳とちゃうで」と言っているうちに、上岡の方から「君ら、握手したいんか?」と声を掛けてきた。その後また偶然に上岡に会う機会があり、「何かの縁やな」と一緒にお茶を飲むことになった。ぜんじろうはその場のウケ狙いで上岡に「弟子にして下さい」と頼み、断られるだろうと思っていたところを上岡から「ええよ」と返され、そのまま彼の弟子になってしまった。ただし、上岡本人は自著において前述のエピソードを否定し、「放送局から出てきたところを待ち伏せしていて弟子入りを申し込まれた。人殺しのような眼をしていた。」と語っている。

[編集] 若手時代

弟子修行時代を経て吉本興業に所属し、関西ローカルのテレビ番組『気分はジャマイカ』に出演。この当時、自分を吉本にスカウトした人物からの指示で「ラッキーぜんじろう」と名乗らされていた。

その後、すぐに「ぜんじろう」と名乗るようになり、同じ事務所の月亭かなめとともに漫才コンビ「かなめ・ぜんじろう」を結成した。ボケかかっていた林正之助吉本興業会長が彼らの漫才を見て「エンタツアチャコの再来じゃ、こいつらを売れ」と言った鶴の一声の大プッシュもあり、各局の新人賞を総ナメにした。『ABC新人漫才落語コンクール』では、優勝候補大本命だった130R板尾創路ほんこん)を押しのけて最優秀新人賞を受賞し、関西若手芸人のトップグループに位置した。しかし、相方のかなめがうつ病を発症するなどしてコンビは波に乗れず、程なくして解散。かなめは廃業し、ぜんじろうは再びピンでの活動を開始した。

コンビ解散後は、深夜のラジオ番組の仕事がメインになった。しかし、当時レギュラーに持っていた深夜ラジオ『ぜんじろうの真夜なかん!かん!』の中で過激な笑いを追及した結果、コアなリスナーには受けたものの、共演者や制作スタッフが付いていけずに辞めていくという事態を招き、次第に事務所との間に溝が出来ていった。また、ラジオ番組の仕事と並行して心斎橋筋2丁目劇場のステージにも出ていたが、自分の芸を見ても事務所の後輩芸人たちの芸を見てもクスリともしない客の態度に憤慨したぜんじろうは、ステージ上で受けなかった芸人同士によるユニット「しねしね団」を発案し、これを結成。これが後に「吉本印天然素材」へと発展したが、ダンスがメインのアイドル芸人グループとして売り出し始めた事務所の方針に異議を唱えた結果、元発案者であるぜんじろうは天素のメンバーから外された。

その後は再びラジオ番組の仕事のみという生活に戻ったが、それを見かねた大崎洋の薦めにより、以後しばらくはHIP HOPアーティストとして活動。月亭可朝のコミックソング『嘆きのボイン』のカバーに携わったり、ラジオ番組のリスナーに外国人タレントを呼ぶイベント会社の人がいた関係から、アイス・キューブの前座を務めたりもした。

[編集] 全国区進出

その後の1992年秋、突如毎日放送から関西ローカルのテレビ番組『テレビのツボ』の司会の話が舞い込んできた。後にこの番組が関西一円で人気を博したことから、ぜんじろう自身も吉本興業と毎日放送から「平成の明石家さんま」という触れ込みで売り出されるようになり、以後はテレビ番組の司会の仕事が増えていった。そして、司会者としての評判だけが一人歩きし始め、東京方面からも仕事が舞い込むようになった。すなわち、全国区進出の始まりである。

1995年からは関西ローカルの仕事を少し減らし、『超天才・たけしの元気が出るテレビ!!』や『ぜぜぜのぜんじろう』など全国ネットの仕事を何本かレギュラーで持つようになった。それとともに大阪吉本から東京吉本へ移籍し、関西ローカルの仕事がある時だけ大阪へ戻るというスタイルを取るようになった。しかし、東京の業界人が求めるものとぜんじろうの資質との間には元々大きなギャップがあったことから[1]、東京で抱えた番組は全て降板。その傍らで関西ローカルの仕事も続けていたが、いずれの番組も短命のままに終わってしまった。かつてラジオ番組などで見せていた溌剌さは全くと言っていいほど鳴りを潜め、完全にやる気を無くしていた。

[編集] 1997年以降の活動

そんな状態を打破するため、1997年からは活動の場を海外へと移した。修行と称し向かった先は、頼る者も全くいないアメリカ合衆国シカゴ。留学の傍ら、世界各地で行った英語漫談が好評を博し、翌1998年にはアメリカで賞を受賞している。2000年には映画『PP兄弟』に出演し、スティーヴン・セガールの実子・剣太郎セガールとともに兄弟漫才コンビ役を演じた。この映画は、翌2001年のサンダンス映画祭などに出品された。

そして、日本国内では毎月1回の定期公演を開催したり、吉本興業主催の芸人コンクール『R-1ぐらんぷり』に出場したりしている。また、高校時代の後輩でもある種浦マサオとともに、芸人・ミュージシャンの枠を超えた活動を展開中。2005年からはNEC製の小型ロボットPaPeRo 2005と組んでの漫才芸を開始し、それによって障害者ニュースにも取り上げられた。2006年にはマイケル・ネイシュタットと「すしぶらざーず」なる異色コンビを結成し、2009年には村上ショージと「ややウケちょいウケ」なるコンビを結成して活動中。ブログtwitterYouTubeなどのインターネットメディアを活用することも多く、現在、日々の活動内容の一般公開はこれらを通じて行っている。

[編集] 受賞歴

[編集] かなめ・ぜんじろうでの受賞

[編集] 海外での受賞

  • 第5回 L.A.Comedy Store Stand Up Competition 第2位及びモストユニーク賞受賞(1998年)

[編集] 出演

[編集] テレビ番組

[編集] ラジオ番組

[編集] 映画

[編集] Vシネマ

[編集] CM

[編集] アニメ

[編集] ゲーム

[編集] 新聞

  • 毎日新聞大阪版夕刊に一面でロボット漫才が取り上げられた。

[編集] 楽曲

[編集] ディスコグラフィ

  • 音楽のル・ツボ(1993年4月、ポリスター
  • にぎりめしの歌(1993年12月、ポリスター) - 『屋台の目ぇ』エンディングテーマ。

[編集] コーラス参加

  • WE ARE THE 魚屋のオッサン '91 (1991年3月、ビクター音楽産業) - 嘉門達夫のアルバム『』収録曲。
  • ツッコミドレミファドン(1991年3月、ビクター音楽産業) - 嘉門達夫のアルバム『宴』収録曲。

[編集] 詩提供

  • FUTAMATA 女性篇 〜アッシー君とツクシンボ〜 (1990年3月、ビクター音楽産業) - 嘉門達夫の同名シングル収録曲。
  • 鼻から牛乳[2](1992年4月、ビクター音楽産業) - 嘉門達夫の同名シングル収録曲。

[編集] 著書

[編集] 自著

[編集] 寄稿

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク