しずてつジャストライン小鹿営業所

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しずてつジャストライン小鹿営業所(2012年11月)

しずてつジャストライン小鹿営業所(おしかえいぎょうしょ)とは、静岡市駿河区にあるしずてつジャストラインの営業所の一つである。ペットマークは地名にちなみシカ(牡鹿)。

所在地[編集]

  • 所在地 422-8021 静岡市駿河区小鹿二丁目25番57号
  • 営業時間 8:50~17:25

概説[編集]

静岡鉄道自動車部の静岡市内のバス路線を管轄する営業所として、丸子営業所と共に1960年代前半に開設された営業所であり、2000年代前半にバス事業の分社化によって、しずてつジャストライン小鹿営業所となり今日に至る。

営業所の所在する駿河区豊田地域の乗合自動車事業は、戦後に模型メーカーとなるタミヤの創業者 田宮義雄が経営する田宮自動車商会が、1926年(大正15年)に静岡駅 - 小鹿間の免許を得て、1927年(昭和2年)から池田や大谷に至る路線を開設したのが始まりであり、1943年(昭和18年)10月に戦時統合により静岡鉄道に吸収された。[1][2]

統合後は静岡鉄道自動車部静岡営業所が開設され、戦後復興から高度成長期に入った1950年代後半からは静岡第二営業所(静岡市国吉田)が郊外路線の殆どを所管していたが、1960年代静岡小鹿営業所が誕生し、主に静岡駅から南部(現在の長田地域を除く駿河区)を起終点とする系統を静岡国吉田営業所と共に担うようになった。[3]

1970年代以降、路線バスの利用者は減少の一途を辿って行くが、静岡駅南部の宅地化の進行に加え、営業所近隣には静岡競輪場三菱電機静岡製作所、静岡済生会総合病院静岡県立大学小鹿キャンパス(旧 静岡薬科大学 )、静岡大学静岡キャンパスカネボウ静岡工場跡地にもツインメッセ静岡(開業時は静岡産業館)など主要施設が多数立地していたことから、それらと新静岡静岡駅を結ぶ系統が維持されてきた。また、1970年(昭和45年)に静岡鳥坂営業所1978年(昭和53年)に唐瀬車庫(のちに静岡唐瀬営業所) が開設され、それらの営業所と管轄路線の再編を行い運用の効率化を進めたことで、1980年代末期に国吉田営業所が廃止された。[4]

1990年代に入ると、学校病院商業地住宅地のアクセス向上のために静岡駅および新静岡駅を挟んだ南北主要路線の統合が行われ、他営業所との共管路線が増加した。[5]

1990年代末期には規制緩和を前に静岡鉄道が大規模な廃止計画を発表し、以降は県や市との調整を図りながら路線の統廃合を進める一方で、静岡市オムニバスタウンの指定と政令市移行を受け、車両施設の近代化・バリアフリー化を進めたことで、現在は小鹿営業所の在籍車両は貸切車両を除き、全て低床車(ノンステップワンステップバス)となっている。[6]

2000年代以降は少子化や人員不足などにより経営環境がますます厳しくなるなかで減便や路線の統廃合、管轄の再編が進んだ結果、現在では静岡駅南口に乗り入れる唯一の営業所となっている。

沿革[編集]

  • 1961年(昭和36年)6月3日 - 静岡鉄道が「体質改善五ヶ年計画」を策定し、モータリゼーションによる経営の悪化や道路渋滞の原因とされた鉄軌道事業について、静岡清水線以外を廃止し路線バスへ転換することでバス事業を会社の根幹に据え、車両の若返りと輸送力増強に努めるという方針が示された。これを受け以降5年間で254両のバスを購入し193両の増車が計画された。また、急激に増加した交通量により市内の渋滞が頻発し輸送力が制限され始めたことから、バスターミナルの整備や営業所の郊外移転等、設備増強も計画された。[7]
  • 1962年(昭和37年)
  • 1963年(昭和38年)
    • 7月4日 - 小鹿営業所の起工式が行われた。[11]
    • 9月 - 静岡鉄道自動車部静岡小鹿営業所(静岡市小鹿252-1)を開設し、それまで静岡第一営業所(静岡市鷹匠町)と静岡第二営業所(静岡市国吉田)の管轄していた路線の一部を移管した。これにより静岡市内の乗合事業を所管する営業所は2営業所体制から、自動車静岡運行管理所(新静岡)に対して静岡国吉田営業所(静岡市国吉田546)、静岡丸子営業所静岡小鹿営業所の郊外3営業所体制となった。[3][12][13]
  • 1964年(昭和39年)1月 - 新静岡駅ターミナルビルおよび新静岡バスターミナルの建設が発表され、工事が開始された。[14]
  • 1966年(昭和41年)
  • 1970年(昭和45年)
  • 1978年(昭和53年)頃 時期不詳 - 静岡市北部(城北、城東地域)の人口増加に対応した効率的運用のため、静岡市岳美に唐瀬車庫(のちに唐瀬営業所)が開設された。
  • 1989年(平成元年)8月 - 国吉田営業所が廃止された。
  • 1998年(平成10年)6月 - 静岡鉄道がバス事業の規制緩和を前に「乗合バス不採算路線計画」として不採算路線の大規模な廃止計画を発表した。[18]
  • 2002年(平成14年)10月1日 - バス事業の分社化によりしずてつジャストライン小鹿営業所として営業を開始した。[19]

現在の営業路線[編集]

みなみ線[編集]

  • 競輪場前→三菱電機前→済生会病院正面→農業会館前→小黒二丁目東→八幡二丁目→静岡駅南口→中田小学校→駿河区役所静岡新聞社→静岡総合庁舎→競輪場入口(三菱電機前)→競輪場前→小鹿営業所(17 内回り[注 1]
  • 競輪場前→三菱電機前→静岡総合庁舎→駿河区役所静岡新聞社→中田小学校→静岡駅南口→八幡二丁目→小黒二丁目東→農業会館前→済生会病院正面→競輪場入口(三菱電機前)→競輪場前→小鹿営業所(18 外回り[注 2]
    • 2007年4月16日改正で「みなみ循環線」から改称。それまでの行先表示は、系統番号17は「みなみ循環 中田まわり」、系統番号18は「みなみ循環 小鹿まわり」。
    • 小鹿営業所→静岡駅南口と静岡駅南口→小鹿営業所間では運行経路が異なる。
    • 静岡駅南口から小鹿営業所へ向かう便は朝のみ三菱電機を経由し、それ以外の便は競輪場入口経由となる。
      また当路線も小鹿線同様、小鹿局前-競輪場前間はループ状の運行経路となっている。
    • 2015年10月1日改正から、中田経由は内回り、曲金経由は外回りに案内名称を変更した。
    • 外回りの平日20時以降の便(最終便は除く)は静岡総合庁舎止まりとなる。

石田街道線[編集]

  • 運行系統および主要停留所
    • 静岡駅南口 - 城南静岡高入口 - 登呂遺跡入口 - 登呂遺跡11
    • 静岡駅南口 - 城南静岡高入口 - 登呂遺跡入口 - 敷地北 - 高松 - 東大谷(12
    • 静岡駅南口 - 城南静岡高入口 - 登呂遺跡入口 - 下島 - 高松(12-1) - 東大谷(12-2
    • 東大谷 - 青沢 - 久能こども園前 - 久能学校前 - 久能山下(14
  • 概説
    • 登呂遺跡行は24分に1本。東大谷行は敷地北経由(12)と下島経由(12-2)が24分間隔で交互に運転されている。平日最終2便は高松止まり(12-1)となる。
    • 大谷-久能山下間は、かつて海沿いを走る新道(国道150号線)経由の便が設定されていたが、現在は全便旧道(市道大谷久能線)経由となっている。また、旧道は道幅が狭く大型車の通行は困難なため、中型車の限定運用となっている。
  • 沿革
    • 2008年(平成20年)
      • 4月1日 - 「登呂線」「石田大谷線」「静岡久能山線」を統合して開設された。旧登呂線が唐瀬営業所から小鹿営業所に移管され、鳥坂営業所との共管路線となった。
      • 10月 - 大谷、久能山系統が鳥坂営業所から移管され、小鹿営業所単独の管轄路線となった。
    • 2009年(平成21年)4月 - 新静岡バスターミナル改築工事により原則として静岡駅南口発着に変更された(土・休日の東大谷行き始発便のみ静岡駅北口発で下島経由)。これに伴い、新静岡-登呂遺跡で使用していた系統番号10は欠番となった。
    • 2010年(平成22年)10月 - 大谷地区区画整理事業により東大谷停留所が移設のうえ転回場が整備され、大谷系統が東大谷まで延伸した。これにより、これまで大谷-久能山下間で運行されていた区間便は、東大谷-久能山下間に短縮された。
    • 2020年(令和2年)6月 - 東大谷 - 久能山下の区間系統が西久保営業所との共管となった。
    • 2021年(令和3年)3月 - 静岡駅南口 - 久能山下間の直通便が休止され、東大谷で18時台まで1時間に1本程度運行されている区間便に乗り換えとなった。区間便は全て西久保営業所の管轄となった。

日本平線[編集]

  • 新静岡 - 静岡駅前 - 小黒二丁目 - 東静岡駅南口 - 動物園入口 - 英和学院大学池田山団地(41)- 舞台芸術公園 - 日本平ロープウェイ42
  • 日本平動物園 → 動物園入口 → 東静岡駅南口 → 小黒二丁目 → 静岡駅前 → 新静岡(土日祝日夕方1本のみ)
    • かつて日本平動物園行きは「動物園線」を名乗っていたが、2007年4月16日改正で静岡日本平線に整理統合された。
    • 平日ダイヤでは、東静岡駅南口-英和学院大学池田山団地間の区間便が多く運行され、全線を通し運行するのは4往復のみである。
    • 休日ダイヤは、季節によっても運行本数が異なる(冬季減回)。
    • 2017年3月26日から静岡駅前~曲金六丁目間を八幡・小黒経由に経路変更された[20]
    • 相良営業所浜岡営業所唐瀬営業所との共管である。
    • 2020年の新型コロナによるダイヤ改正で、平日のみ鳥坂営業所の担当が復活した。

大浜麻機線[編集]

  • 麻機(あさばた)北(73)・麻機(72) - 麻機小学校 - 唐瀬(74) - 北安東三丁目 - 安東一丁目 - 中町 - 新静岡 - 静岡駅前 - 馬渕三丁目 - 見瀬Daiichi-TV入口 - 大浜・大浜プール(26
    • この路線は唐瀬営業所との共管路線である。
    • 2020年8月24日のダイヤ改正からは平日に限り、丸子営業所との共管となった。

県立病院高松線[編集]

  • 運行系統および主要停留所
    • 唐瀬営業所(90) - 県立総合病院(70) - 柳新田辻 - アイセル21 - 英和女学院前 - 中町 - 新静岡 - 静岡駅前 - 南郵便局ツインメッセ前 - 登呂コープタウン(20。唐瀬営業所発便は22
  • 概説

美和大谷線[編集]

  • 運行系統および主要停留所
    • 奥長島(127)・足久保団地(126) - 美和中学校前 - 美和団地(124) - 安倍口団地(早朝の北行は経由せず) - 西ヶ谷運動場入口 - 籠上 - 赤鳥居 浅間神社入口 - 県庁・静岡市役所葵区役所前 - 新静岡 - 静岡駅前 - 栄町 - 下横田 - 競輪場入口 - 堀ノ内 - 片山南(静岡大学35) - 井庄 - 東大谷(36。静岡大学経由は34)・ふじのくに地球環境史ミュージアム38。静岡大学経由は37[21][注 3]
  • 概説
    • 1995年(平成7年)に鳥坂営業所の所管する「美和線」と小鹿営業所の「小鹿大谷線」を統合し開設された路線であり、鳥坂営業所との共管路線である。[5]

休廃止路線[編集]

東静岡静大線[編集]

小鹿線[編集]

  • 新静岡 - 静岡駅前 - 栄町 - 豊原町 - 小黒一丁目 - 曲金三丁目歯科医師会館前 - 農業会館前 - 済生会病院正面 - 小鹿局前 - 競輪場入口(県立短大 - 三菱電機前) - 競輪場前 - 小鹿営業所(3031
  • 静岡駅南口→(直通)→三菱電機前(三菱電機静岡製作所の稼働日のみ運行)
    • 小鹿局前-競輪場前間はループ状の運行経路となっていた。小鹿営業所から静岡駅方面へ向かう便は三菱電機の静岡工場前を経由する。また静岡駅から小鹿営業所へ向かう便は朝のみ三菱電機を経由し、それ以外の便は競輪場入口経由となっていた。
    • かつては競輪場入口から小鹿・小鹿橋を経由する経路であったが、2007年4月16日改正で現行経路へ変更された。
    • 2009年10月から新静岡バスターミナル工事のため、全便静岡駅発着に変更。15分間隔の運行から45分間隔の運行へと大幅減回された。
    • 2017年3月26日に安東循環線と共に運行が休止された[23]。運行休止前は平日の午前中のみの運行と大幅に削減されていた。

小鹿大谷線[編集]

池田線[編集]

  • 新静岡 → 静岡駅前 → 済生会病院前 → 競輪場入口(33)→ 小鹿公民館前 → 本覚寺入口 → 池田(32)→ 東豊田小学校 → 静岡ガス工場前 → 静岡駅前 → 新静岡
  • 新静岡 → 静岡駅前 → 静岡酸素前 → 静岡ガス工場前 → 東豊田小学校前 → 池田(37)→ 小鹿北原 → 小鹿公民館前 → 競輪場入口(38)→ 済生会病院前 → 静岡駅前 → 新静岡
    • 午前は済生会病院経由(32)、午後は静岡酸素前経由(37)で運転されていた。入庫のため競輪場入口になる便には、済生会病院経由(33)・静岡酸素前(38)経由の系統番号も設定されていたが、晩年は方向幕には番号は表示されていなかった。

南部循環線[編集]

駅南小鹿線[編集]

  • 競輪場前→済生会病院前→農業会館前→八幡二丁目→森下小学校前→静岡駅南口(29
    • 廃止前は平日朝のみの片道運行。
    • みなみ循環(現みなみ線)開業前は平日朝夕のみの運行で、競輪場付近は以前の小鹿線同様ループ運転となる。
    • 昭和40年代までは新静岡発着だった。

(当時の経路)
(往路)新静岡 - 県庁前 - 本通三丁目 - 七間町 - 宝台橋 - 馬渕二丁目 - 稲川町 - 静岡駅南口 - 森下小学校 - 八幡二丁目 - 農業会館前 - 済生会病院前 - 小鹿局前
(復路)競輪場入口 - 競輪場前 - 三菱入口 - 薬大前 - 小鹿局前 - (往路と同じ) - 八幡二丁目 - 八幡三丁目 - 静岡駅南口 - (行きと同じ) - 県庁前 - 静岡駅前 - 新静岡

富士見線[編集]

  • 運行系統および主要停留所
  • 概説
    • 1950年代後半に、久能街道経由だった「久能山線」が登呂遺跡への観光ルート上にある石田街道経由に付け替えられ、それまでの静岡駅から久能街道を経由して高松までの区間には「大谷循環」と「宮竹循環」が開設された。さらに「大谷循環」は「小鹿大谷線」に整理され、「宮竹循環」の石田街道区間も「久能山線」に整理され、久能街道経由の静岡 - 高松間が「富士見線」として分離された。
    • 開設当時は高度経済成長期に入り自動車交通量が急激に増加した時期にあたり、1960年代前半には、国道1号(静清国道)の日出町交差点から八幡踏切付近への右折渋滞の回避のため、富士見方面行は伝馬町を経由して現在の県道354号静岡環状線(つつじ通り)から八幡方面に直進するよう系統が変更された。さらに国道1号静岡駅前付近の渋滞解消のため、静岡駅前での折り返しを減らし他の路線に直通する政策が採られた結果「柳新田線」と統合され「柳新田富士見線」となった。これにより「富士見線」は一旦消滅した。
    • 県立総合病院の開院と静岡駅前北口バスターミナルが整備された1980年代前半には「柳新田富士見線」が再び「県立総合病院線」と「富士見線」に分割された。なお「県立総合病院線」との直通運行が引き続き行われたが、長距離運行による遅延防止のため、朝の通勤・通学時間帯のみの運行となっていた。
    • 1970年代以降、都市計画道路東町高松線(旧 曙町通り 現 産業館西通りおよび県道384号高松日出線新道)の整備が進み、小黒地区に静岡県の静岡総合庁舎や鐘紡静岡工場跡地に静岡産業館(現 ツインメッセ静岡)、高松地区には土地区画整理事業により登呂コープタウンが整備された結果、それらを経由する「小黒富士見線」に徐々に基幹路線の座を譲り、「富士見線」はそれを補完する旧道経由の路線という位置付けとなっていった。1990年代半ばには「県立総合病院線」と「小黒富士見線」が統合され南北直通の基幹路線として「県立病院高松線」が誕生し、更に1990年代末期の路線バスの大規模な再編の際には「県立病院高松線」が並行しており影響が少ないという理由から廃止された。[24]
  • 沿革
    • 1958年(昭和33年)- 同年12月の路線図では次の経路を運行していた。
    • 1961年(昭和36年)9月10日 - 静清国道(国道1号)の日出町交差点から八幡踏切付近への右折渋滞の回避のため、富士見方面行は伝馬町を経由して現在のつつじ通り(県道354号静岡環状線)から八幡方面に直進するよう系統が一部変更された。[25]
    • 1962年(昭和37年)12月1日 - 静岡駅前の混雑解消のため「柳新田線」と統合され「柳新田富士見線」となった。[26]
    • 1983年(昭和58年)2月 - 「柳新田富士見線」が「県立総合病院線」と「富士見線」に再び分離された。なお「柳新田富士見線」時代に富士見台方面は都市計画道路東町高松線(産業館西通り・県道384号高松日出線新道)を経由し登呂一丁目から久能街道を経由して新静岡方面行に戻る循環系統となっている。[27][28]
    • 1994年(平成6年)- 「県立総合病院線」と「小黒富士見線」が統合され「県立病院高松線」となり、「富士見線」も富士見台 - 有東三丁目区間を経由する循環系統が廃止され、小鹿営業所を起終点にSBS通りを経由する経路に変更された。[29]
    • 1998年(平成10年)2月 - 「不採算路線再編計画」に盛り込まれ、静岡市と協議の結果、廃止の影響が少ないとして同年度を以って廃止が決定された。[24]
    • 1999年(平成11年)3月末の運行を以って廃止された。

小黒富士見線[編集]

  • 運行系統および主要停留所
    • 新静岡 - 静岡駅前 -( → 伝馬町→)- 栄町 - 森下町 - 八幡二丁目 - 小黒二丁目 - 南郵便局産業館前 - 静岡総合庁舎 - 有明町南(→ 富士見台(21)→・← 市立商業前 ← 有東三丁目 ← )- 登呂一丁目 - 登呂二丁目 - 宮竹一丁目 - 登呂コープタウン(20
  • 概説
    • 「柳新田富士見線」の旧「富士見線」区間の増強のため1960年代半ばに開設された。沿線には有東住宅や有明団地などの公営住宅に加え有明町には静岡県の静岡総合庁舎が開設され、富士見台や登呂1丁目周辺の宅地化の進行により利用者が急増していたが、久能街道(現 県道384号高松日出線)が狭隘なため、増回すればするほど遅延が発生してしまう状況となっていた。[30] このため、八幡2丁目交差点から久能街道を経由せず、県道407号(カネボウ通り)と都市計画道路東町高松線(曙町通り 現 産業館西通りおよび県道384号高松日出線新道)を経由して新静岡・静岡駅と登呂一丁目や富士見台周辺を結ぶ「小黒富士見線」を新たに開設した。
    • 「柳新田富士見線」と同様に国道1号八幡踏切付近の右折渋滞の回避のため伝馬町を経由していたが、さらに1970年代後半からは、伝馬町から国道1号への右折渋滞回避のため、下りのみ伝馬町経由となった。
    • 1980年代前半には「柳新田富士見線」が「県立総合病院線」と「富士見線」に再分離されたが、静岡産業館(現ツインメッセ静岡)の開業や、登呂二丁目から宮竹周辺の宅地化の進行により「小黒富士見線」が延伸、増強されたことにより「富士見線」が「小黒富士見線」の補完路線という位置付けに逆転しており、1990年代には「小黒富士見線」が「県立総合病院線」と統合され「県立病院高松線」となり、「富士見線」は廃止されている。
  • 沿革
    • 1966年(昭和41年)5月10日 - 新静岡センター新バスターミナルの開業に合わせて開設された。[30]
    • 1972年(昭和47年)
      • 3月11日 - 東海道本線の都市計画道路東町高松線(現 産業館西通り東森下架道橋)から静岡駅を挟み宝台橋(現 宝台院架道橋)までの東西2.5Kmの高架化が都市計画事業として認可された。 [31]
      • 11月 - 東海道本線の高架化事業が着工した。[32]同月現在の路線図では次の経路を運行していた。
        • 新静岡 - 静岡駅前 - 伝馬町 - 栄町 - 森下町 - 八幡二丁目 - 小黒二丁目 - 小黒三丁目 - 小黒五丁目 - 有明町北 - 有明町南 - 市立商業前22)( → 富士見 → 登呂台町一丁目 → 登呂台町入口 → )(20
    • 1973年(昭和48年)10月24日 - 東海道本線の曲金踏切がアンダーパス(地下道)となった。[33]
    • 1976年(昭和51年)3月 - 高松地区の土地区画整理事業により登呂コープタウン(賃貸低層住宅団地11棟240戸)が完成した。[34][35]
    • 1977年(昭和52年)
      • 2月 - 同月現在の路線図では東海道本線の八幡踏切 を迂回し下横田、曲金を経由する系統が存在している。
        • 新静岡 - 静岡駅前-( → 伝馬町 →)- 栄町 - 日出町 - 下横田 - 静岡盲学校前 - 曲金入口 - 小鹿二丁目 - 南郵便局前 - 有明町北 - 有明町南(→ 富士見台(21) → 登呂一丁目 → 有東三丁目 → 市立商業前22)→)
      • 10月17日 - 東海道本線下りの高架化が完了し、それまでの1日の踏切遮断時間が8.4時間から半減した。[36] [37]
    • 1979年(昭和54年)2月15日 - 東海道本線上りの高架が開通し高架化が完了した。[38][39]
    • 1982年(昭和57年)3月13日 - 鐘紡静岡工場跡地に静岡産業館(現ツインメッセ静岡)が落成した。[40]
    • 1983年(昭和58年)3月 - 同月現在の路線図では登呂コープタウンまで延伸している。
    • 1994年(平成6年)- 「県立総合病院線」と統合され「県立病院高松線」となった。

曲金富士見線[編集]

  • 概説
    • 1950年代末期に「小鹿・石田循環線」から分離延伸して開設された。新静岡 - 小鹿局前 間は「小鹿大谷線」小鹿局前 - 市立商業前間は「石田豊田線」市立商業前 - 新富士見 間は「富士見線」が併行していた。
    • 1960年代半ばには「柳新田富士見線」の曲金経由として整理統合された。
  • 沿革
    • 1959年(昭和34年)6月16日 - 同日改正の時刻表では1日5往復の運行であった。
    • 1962年(昭和37年)11月25日 - 同日現在の時刻表では1日3往復に減便されている。
    • 1963年(昭和38年)9月 - 小鹿営業所の管轄となった。
    • 1964年(昭和39年)5月1日 - 「柳新田富士見線」に整理統合された。

柳新田富士見線[編集]

  • 沿革
    • 1962年(昭和37年)12月1日 - 静岡駅前の混雑解消のため「富士見線」と「柳新田線」が統合され「柳新田富士見線」となった。[26]
    • 1963年(昭和38年)9月 - 静岡国吉田営業所と静岡小鹿営業所の共管となった。
    • 1983年(昭和58年)2月 - 旧柳新田線区間が唐瀬営業所との共管で「県立総合病院線」となり、「富士見線」が再分離された。

新静岡セノバ直行便石田号[編集]

  • 下島 -《この間各バス停停車》- 大坪町 -《この間通過》- 新静岡
    • 2011年12月30日から、新静岡セノバへの直行便として運転を開始した。他の新静岡セノバ直行便とは異なり、復路もノンストップ運転する区間がある。
    • 下島バス停周辺には折返設備がないため、バスは下島-東大谷間を回送運転している。
    • 2012年10月限りで運行を終了した他の「新静岡セノバ直行便」と異なり、2012年11月以降も休日ダイヤのみの運行を継続していたが、2014年3月30日の運行をもって廃止された。

車両[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 2015年9月30日までの案内名称は中田経由
  2. ^ 2015年9月30日までの案内名称は曲金経由
  3. ^ ふじのくに地球環境史ミュージアムの開館に伴い2016年3月26日ダイヤ改定で美和大谷線が延伸された。

出典[編集]

  1. ^ 飯塚伝太郎 編『東豊田郷土誌』東豊田郷土誌編纂委員会、1980年3月9日、481-484頁。 
  2. ^ 鉄道省 編『全国乗合自動車総覧 静岡県』鉄道公論社出版部、1934年12月29日、15頁。 
  3. ^ a b 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、104頁。 
  4. ^ 加藤佳一 編『BJニューハンドブックスNo.39 しずてつジャストライン』BJエディターズ、2003年5月1日、28頁。ISBN 4-434-01904-X 
  5. ^ a b c 『バスラマインターナショナル No.35』ぽると出版、1996年4月25日、35-36頁。ISBN 4-938677-35-0 
  6. ^ 『バスマガジン vol.111』講談社ビーシー、2022年1月27日、55,60頁。 
  7. ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、151-153頁。 
  8. ^ 『写真で綴る静岡鉄道70年の歩み』静岡鉄道、1989年4月、162頁。 
  9. ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、220頁。 
  10. ^ 『静岡市史・近代 通史編』静岡市、1969年4月1日、924頁。 
  11. ^ 『静苑 1963年7月号』静岡鉄道、1963年7月25日、5頁。 
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座標: 北緯34度58分24.8秒 東経138度25分12秒 / 北緯34.973556度 東経138.42000度 / 34.973556; 138.42000