小西信八

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小西 信八(こにし のぶはち、1854年安政元年) - 1938年昭和13年7月5日))は、日本の盲唖学校・聾唖学校校長であり、初期聾唖教育・盲教育の充実に努めた。

目次

[編集] 生涯

1854年(安政元年)に、越後で生まれる。戊辰戦争長岡城が落ちた時、小西一家は藩主とともに会津・山形まで逃げた。最後にかくまってくれた農家に、小西は終生恩義を感じていたという。1875年明治8年)、東京師範学校に入学した。卒業後は、千葉県の中学校・女子師範学校を経て、東京女子師範学校で幼稚園教育の実践と諸外国の保育を研究した。

1886年に、文部省直轄となった築地訓盲唖院の専務となり、その後東京盲唖学校長心得を経て校長となる。小西は、カナモジ会で知り合っていた千葉県茂原小学校の石川倉次を、熱心に誘って築地訓盲唖院に引き入れる。ブライユ点字を知った小西は、1887年に石川倉次に、日本で使える点字の考案を依頼した。ブライユ点字は6点であるが、日本語は文字が多く、石川は8点点字を考えた。しかし、小西は6点点字の考案を求め、1890年11月1日の点字選定会で倉次の案が日本点字として採用が決定した。これまで、視覚障害者は、普通の文字を突起させたものを触って読むしかなく不便をかこっていたものが、容易に自由に読み書きできる文字を獲得することができたのである。この点字は京都訓盲院でも歓迎をもって迎えられ、その後広く普及することとなる。当時は、戦火により失明する軍人が多かったが、小西は、校内に失明軍人教習所を開き、中途失明軍人の社会復帰をも助けた。

1909年に東京盲唖学校の盲聾分離が実現し、東京聾唖学校と東京盲学校が成立した。東京盲学校を町田則文にまかせ、自らは東京聾唖学校長になる。1925年大正14年)に東京聾唖学校長を退官する。1938年昭和13年)逝去、享年84歳。

[編集] 年譜

  • 1854年(安政元年) 越後で生まれる
  • 1875年(明治8年) 東京師範学校に入学。卒業後は、千葉県の中学校・女子師範学校を経て、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)で幼稚園教育の実践と諸外国の保育を研究した
  • 1886年 文部省直轄となった築地訓盲唖院の専務となり、その後東京盲唖学校長心得を経て校長となる
  • 1909年 東京盲唖学校の盲聾分離が実現し、東京聾唖学校と東京盲学校が成立。東京盲学校を町田則文にまかせ、自らは東京聾唖学校長になる
  • 1925年(大正14年) 東京聾唖学校長を退官する
  • 1938年(昭和13年) 逝去、享年84歳

[編集] 著作

  • 小西信八述『普列伯氏略伝』普及舎、1893年7月
  • 小西信八先生存稿刊行会編『小西信八先生存稿集』小西信八先生存稿刊行会、1935年11月
    • 大泉溥監修『文献選集教育と保護の心理学 明治大正期第11巻』クレス出版、1997年2月
    • 小西信八先生存稿刊行会編『日本教育史基本文献・史料叢書 46 小西信八先生存稿集』大空社、1997年10月、ISBN 4872366468

[編集] 参考文献

  • 『盲唖教育の師父 小西信八先生 : 小伝と追憶』日本聾唖教育会、1938年10月
  • 平田勝政「解説」(前掲、小西信八先生存稿刊行会編『日本教育史基本文献・史料叢書 46 小西信八先生存稿集』)
  • 下田知江著『盲界事始め』あずさ書店、1991年11月、ISBN 4900354260

[編集] 関連項目

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