くいだおれ
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| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 市場情報 | 非上場
|
| 本社所在地 | 542-0071 大阪府大阪市中央区 |
| 設立 | 1949年 |
| 事業内容 | マネージメント事業 |
| 代表者 | 代表取締役会長 柿木道子 代表取締役社長 山田昌平 |
| 資本金 | 2400万円 |
| 関係する人物 | 山田六郎(創業者) |
| 外部リンク | http://www.cui-daore.co.jp/ |
くいだおれは、マスコットキャラクター「くいだおれ太郎」のマネージメントを行う企業。かつては、飲食店及びそれを収容するビルを経営していた。
目次 |
[編集] 概要
大阪市中央区道頓堀に1949年6月、山田六郎が創業・開店した。屋号は「京の着倒れ、大阪の食い倒れ、江戸の飲み倒れ」という、「京都の人間は着物道楽が過ぎて、大阪の人間は美食が過ぎて、江戸の人間は良い酒を飲み過ぎて財産を失う」との意味の、江戸時代からの地域性を表した慣用句による[1]。
焼け野原となった大阪で復興に寄与することを目指し食堂として創業。創業者・山田六郎の意向から家族経営で支店などは存在せず、遺言にも「支店を出すな」「家族で経営せよ」「看板人形を大切にせよ」と記されている。
流行には敏感に反応、1953年の街頭テレビが関東一円に設置される前年(1952年)に、米国製テレビ受像機を購入して店内に設置するなどしている。NHKのテレビ本放送開始は1953年2月1日で当時は試験放送が日に数時間程度あっただけだったという。この当時、大阪市内のテレビ受像機総数は50台程度で、価格もサラリーマン平均年収数年分に相当した。
1959年にはくいだおれビルを建造、この際にもいち早くビル内すべてを空調設備完備とするなど最新の環境設備を自慢とした。1階が総合食堂、2階が居酒屋、3階が日本料理店、4~8階が割烹お座敷があり、食材も集まる流通拠点・商業都市としての大阪のもう一つの顔でもある、全国各地の名産品が入ることから飲食店が発達している「食い倒れの町」としての側面を体現している。
[編集] 閉店
- 2008年4月8日、建物の老朽化や周辺環境の変化などを理由に同年7月8日をもって閉店すると報道各社に伝え、翌9日、経営陣が記者会見を開いた[2][3][4]。
- 尚、営業最終日である2008年7月8日は18時までの営業となり、5階から8階は関西の芸能人、文化人ら著名人を招待しての「最後の晩餐」を催した。閉店当日、くいだおれ太郎は「永いことありがとう。おおきに 太郎」という言葉を残し、弟の「次郎」と共に店頭に立った。午後9時前に女将が「大阪名物くいだおれは日本一幸せな店でございました」と言葉を残し午後9時、店の約59年の歴史に幕を閉じた。なお、産経新聞は、くいだおれ閉店当日に大阪市内の一部で閉店を報道する号外を発行した。
- 不動産は傍系のくいだおれ不動産が保有しているが、跡地利用方法は未確定。法人としてのくいだおれは、飲食業の廃業後はマスコットキャラクターのマネージメント業に業態を変えている。
[編集] くいだおれ太郎
1階正面にチンドン屋の格好をした広告宣伝用の人形があり、これは「くいだおれ太郎」と呼ばれる。1950年に登場、以降次第に知名度をあげ、1990年代よりは大阪の町を代表する名物として人気がある。
くいだおれ太郎は同店の看板であると共に、ビリケンや通天閣と並び大阪を象徴するオブジェ(動く看板)となっている。文楽人形の製作技術が利用され、制作費は1千万円とされている。電動で休むことなく太鼓を叩いたり鐘を鳴らす・首を振る・口パクするなど一種の「宣伝ロボット」である。太郎登場以前には文楽人形そのものを直接人間が操作して、店への呼び込みを行っていた。なお、顔のモデルは喜劇役者の杉狂児と言われる。
1959年のくいだおれビル建設の際には「店頭の人形は撤去すること」が銀行側からの融資条件に含められてしまった。この当時はまだ「くいだおれの看板」としての知名度は低く、高度経済成長期に入り街が近代化して行く中で、融資元の目には「時代錯誤で街のイメージに添わない騒音を出す人形」としか映らなかった模様である。山田はどうしても太郎を外したくなかったため、同ビルは銀行融資無しで建設されたという。
1989年に昭和天皇が崩御(死去)すると、太郎の衣装を通常の紅白のものから白黒のものに変更した。 1990年には「バンザイ人形」と呼ばれる太郎の別バージョンが登場し、同年11月の今上天皇の即位の御大典を祝福した。この「バンザイ人形」後に太郎の弟「次郎」と名づけられ国民の慶事や大阪関係の発展に関するニュースの際に店頭に登場し、バンザイしていた。
1992年に阪神タイガース優勝がいよいよ目前に迫ると、何処となくタイガースのスター選手亀山努に似た太郎が、前回の優勝時に熱狂したタイガースファンらにより道頓堀に投げ込まれたカーネルサンダース像の代わりとして狙われ、道頓堀に投じられるのではという懸念が生じた。そのため、「わて、泳げまへんねん」とふきだし風の看板が添え浮き輪に水中眼鏡という特別コスチュームに変更された。
この頃より「くいだおれ太郎」の知名度が全国的に急速に上昇、1993年には太郎のキーホルダーが製作された。前述の通り、山田の遺言にはこの人形を大切にするようにという文言が添えられていた。
くいだおれ太郎は大阪城、通天閣、太陽の塔と並ぶ大阪を代表するシンボルの一つと見做される。創業者・山田六郎の出生地の香美町(旧・香住町、現・香美町香住区)から人形を引き取りたいとの要望も上がった。
なお、「くいしんぼう仮面」という、くいだおれ太郎をモチーフにした覆面レスラーがいる。
[編集] 製作者
くいだおれ人形作者である二代目由良亀(藤本雲並)は、淡路島・洲本市由良町出身で、淡路人形浄瑠璃の頭(かしら)の製作に携わっていた人物である。
文楽にゆかりの者が由良を通りがかった折に由良亀の秀作に目を留め、「このまま淡路人形浄瑠璃の頭作りで終わるには惜しい腕だ。ぜひ大阪に出て文楽の頭を作らないか。」と声をかけたのが大阪にでるきっかけとなった。およそ1946~1948年頃に大阪に出、文楽人形浄瑠璃の人形製作者となる。その後、後進をも師事し、文楽振興に貢献している。谷崎潤一郎が淡路島に逗留しながら書いた初期の小説『蓼喰ふ虫』の中にも「由良亀」として登場し、谷崎潤一郎の小説のモチーフとして協力している。
くいだおれ人形は1949年に由良亀が淡路島から大阪へと出た当初、アルバイトで製作したもので、本業の浄瑠璃の頭(かしら)製作者としても秀作を残している。由良亀の製作した人形の頭(かしら)は、洲本市立淡路文化史料館にも保存されている。
[編集] 名前
「くいだおれ太郎」という名前は1994年まで存在せず、それ以前はくいだおれ側も「くいだおれ人形」と非公式に呼んでいただけで、明確な名前が付けられていなかった。
しかし、1994年に関西国際空港が開港した際、「大阪を代表するオブジェ」としてアンセット・オーストラリア航空とルックJTBタイアップ企画として同空港第1便となるオーストラリア行きの旅客機に「乗客」として搭乗した。この時に座席指定を受けるために正式に名前が与えられた。同時にバンザイ人形には「くいだおれ次郎」という名が与えられた。
この企画では、関西国際空港から旅立った「くいだおれ太郎」がオーストラリアに到着した様子が現地のメディアでも報じられている。また、1995年には阪神・淡路大震災で低迷した国際線の旅客回復・増大を目指し、再びくいだおれ太郎がルックJTBとくいだおれ共同企画で同空港からアメリカ・ロサンゼルスへと「旅行」した。この時は、野球選手の野茂英雄の応援のために球場に乗り込んだこともあり、同様に地元メディアで報じられている。
[編集] 家族について
くいだおれ太郎には父親と弟がいた(2005年に放送のFNS系列「トリビアの泉」で柿木会長自ら語っていた)。父親の名前はズバリ「おやじ」、弟の名前は「くいだおれ次郎」である。
くいだおれ次郎は国民的行事[5]がある時のみ登場した。“おやじ”は右手にお盆を乗せ、そのお盆に本物のビールが入ったジョッキを乗せたまま回転していた」為、回転の度にビールが通行人にかかり、苦情が寄せられた為創業当初のみの登場だった。なお、くいだおれ次郎は、通常は“宿舎”で待機していた。
但し、最近は“くいだおれ閉店”に伴い「くいだおれ太郎」が各地に“ひっぱりだこ”状態になっているため、くいだおれ次郎が店頭に登場する事が多くなっている。
尚、営業最終日は「太郎」と「次郎」の兄弟が、一緒に店頭に並んだ。
[編集] 関連項目
[編集] 関連書籍
- 「ばかたれ、しっかりせ - くいだおれ会長・山田六郎伝」(著:柿木央久、1996年 講談社)ISBN 9784062083003
- 「くいだおれ太郎のつぶやき。」(著:くいだおれ太郎、2008年 マガジンハウス)ISBN9784838718863
[編集] 脚注
- ^ 『嬉遊笑覧』(1830年)、『都の錦集』収録『元禄曽我物語』(1702年)など。
- ^ 「『くいだおれ人形』の食堂が7月8日に閉店へ」 産経新聞:2008年4月8日付
- ^ 「道頓堀『くいだおれ』、7月閉店『定年迎えた』」朝日新聞:2008年4月8日付
- ^ 「よくできた『看板』息子だった」くいだおれ会長しみじみ 産経新聞:2008年4月9日付
- ^ 近年では2002年のFIFAワールドカップ日韓大会や2003年の阪神タイガースのリーグ優勝など

