お船の方

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お船の方(おせんのかた、弘治3年(1557年) - 寛永14年1月4日1637年1月29日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。父は直江景綱、母は山吉政応の娘。直江信綱正室、のち直江兼続の正室。

生涯[編集]

弘治3年(1557年)、長尾景虎(上杉謙信)の重臣で越後国与板城主である直江景綱の娘として生まれる。景綱には男児が無かったため、跡継ぎとして総社長尾氏の長尾藤九郎を船の婿として迎え、直江信綱と名乗らせた。天正5年(1577年)に景綱が死去すると信綱が家督を相続したが、天正9年(1581年)に恩賞を巡るトラブルにより、春日山城内で毛利秀広によって山崎秀仙とともに殺害された[1]

その後、上杉景勝の命令で直江家を相続することになった樋口兼続[注釈 1]を婿に迎えた[2]。兼続との間には1男1女(長男:直江景明、長女:於松)[注釈 2]をもうけたものの、景明は生来病弱で両眼を病んでいた。兼続は慶長9年(1604年本多正信の次男・本多政重を長女於松の婿養子に迎えているが、翌年於松は早世した。長男・景明も慶長20年(1615年)に早世した[3]

兼続は生涯、側室を持つことがなかった。文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の人質となった景勝正室の菊姫とともに京都伏見の上杉邸に移り、慶長5年(1600年)、景勝正室は妙心寺内亀血庵に入り、船は米沢に帰った(『西村由緒書』)[1]

慶長9年(1604年)5月、景勝の側室四辻氏が景勝唯一の子・定勝を産んだが、菊姫が2月に死去、さらに四辻氏自身も8月に死亡したため、直江夫妻が定勝の養育を担当した。

元和5年(1619年)に兼続が死去すると、剃髪して貞心尼と号した。景勝より3000石の化粧料を与えられ、以後は直江家の江戸鱗屋敷に住んだ。寛永2年(1625年)、兼続が生前に出版した『直江版文選』の再版を行っている[4]。『米沢雑事記』には、「山城守(兼続)相果て候ても、大小の事ども後室(船)へあい計らい候よし。(中略)昔、頼朝公(源頼朝)御逝去よりして御台所(北条政子)は禅尼とならせ給へども、天下の事は右大将(頼朝)御在世の如く(中略)時俗これを尼将軍と申し奉る。直江後室も似たり」と、船と北条政子の類似が指摘されている。兼続亡き後も上杉家におけるお船の影響力は大きかったようである。

母代わりを務めた定勝とは大変深い交流があったようで、景勝が元和9年(1623年)に死去し、定勝が米沢藩主になった後も、船は化粧料3000石[5]に加え手明組40人[6]を与えられている。また寛永13年(1636年)に船が病に倒れると、定勝は茂田左京に命じて、病気平癒祈願として伊勢の両宮にて大神楽を奏せしめ、同日に自ら見舞いに訪れた[7]。しかし定勝の願いは通じず、翌寛永14年(1637年)1月4日死去した。享年81。兼続の死後、再び未亡人となったお船は養子を迎えなかったため、お船の死を以って直江宗家は断絶した[7]

戒名は宝林院殿月桂貞心大姉。墓所は米沢市の徳昌寺に葬り、のちに改葬されて林泉寺。遺骨は和歌山県高野山清浄心院に納めた。定勝は高野山に使者を派遣し、船のために常灯料を寄付し、墓石を立てたという[7]

関連作品[編集]

TVドラマ
小説

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 一説に兼続の母はお船の父・景綱の妹とされ、お船と兼続はいとこであったとも言われるが、正確な史料を欠いている。また一説では兼続の母は信州泉氏の出と言われる。
  2. ^ 他に次女がいたとする説が長年の通説であったが、名は不明で、長男長女の様に生存の確実な証拠となりうる史料は現在のところ見つかっていない。
    その次女がいたとの拠り所とされているのが、『越後国供養帳』の法名である。しかしこの法名は、兼続とお船の間の実の次女のものとしては、長女於松のものに比べやや立派であり、実の次女のものとは考えにくいことを今福匡が指摘している。さらにこの法名の供養者は「お船の乳人」で、「お船のため」の逆修供養の法名であることも指摘(逆修供養は、生存者に対する生前供養の他に、年若の者への供養にも使われる言葉である)。よってお船に頼まれ、お船の乳人がお船の生前供養をした、またはお船の代わりにお船の乳人が誰か年若の娘の供養をした法名と言える。以上のことから少なくとも、兼続とお船との間の実の次女の法名とは言い難いだろうと今福は主張している。
    また今福は、『兼見卿記』(吉田兼見の日記)にあらわれた兼続の娘のことを記している。文禄4年(1595年)7月23日、京都の吉田神社に「越後上杉家中直ヲヒ山城守息女」が訪れた。兼続の娘は9歳で、「先日の契約に任せ」「猶子として来るべきの由」という。兼見の息子兼治によって、9歳息女には「御まん御料人」の名が贈られた。この日記にあらわれる「直ヲヒ息女」の2人の娘には、明らかに扱いに差がみられる。9歳息女が必ず筆頭に記述され「御まん御料人」という名までが記載されているが、姉であるはずの11歳息女はおろか、母であるはずのお船も順番では後にまわっている。姉娘については、始終「十一歳息女」とのみ記され、この姉娘は兼続とお船の長女「お松」に比定できると思われるが、ついに兼見の日記中ではその名が記されることはない。他にも「御まん」はお船と長女に比べ、兼見らから格別に気を遣われている。この9歳息女について誰であるか、蓋然性が高いのは、後に景勝の側室となる四辻氏の娘であると今福は論じている。またこの数か月前の3月28日には「上杉息女九歳、~」の一文が見える。これを景勝の娘ではなく上杉家の娘というニュアンスでとらえると、その後兼続の猶子となる話が具体化し、将来景勝の妻妾となることが予定されていたと考えられるとの説を論じている(「御料人」という呼称からしても)。また、御まん御料人が四辻氏の女であるかどうかこれだけでは断定できないが、この娘が兼続とお船の実の娘ではなく、身分の高い家柄の娘であることは間違いないであろうとしている。

出典[編集]

  1. ^ a b 木村, p. 587.
  2. ^ 木村, p. 31.
  3. ^ 木村, p. 577.
  4. ^ 今福, p. 372.
  5. ^ 今福, p. 371.
  6. ^ 今福, p. 374.
  7. ^ a b c 木村, p. 588.

参考文献[編集]

外部リンク[編集]