いろは丸
- 以呂波丸(いろはまる) - 1854年に薩摩藩の島津斉彬が建造させた日本最初の西洋型帆走船。
- いろは丸(いろはまる) - 江戸時代末期(幕末)に、伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)が所有していたイギリス・バーミンガムで建造された蒸気船。
- いろは丸(いろはまる) - 1884年(明治15年)に、東京神田区(現・東京都千代田区)の林千尋ならびに長野県北佐久郡岩村田町(現・長野県佐久市)の篠澤豊太郎らが東京~小見川(現・千葉県香取市)間の江戸川・利根川に就航させた外輪蒸気船。
以下、2. のいろは丸について詳述する。
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[編集] 要目
- 母港 伊予国大洲藩長浜(現在の愛媛県大洲市長浜町)
- 全長 30間
- 全幅 3間
- 深さ 2間
- トン数 160トン
- 機関、 45馬力、 蒸気内車(スクリュー船)、マスト3本あり、帆走可能
[編集] 年譜
- 9月22日(旧暦8月14日) - 大洲藩郡中奉行であった国島六左衛門が、長崎において坂本龍馬と五代友厚の仲介によりポルトガル領事ジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロから4万メキシコ・パタカ(万延小判で換算すれば3万3600両となる)で購入し、いろは丸と改名する[1][3][4][5]。
- 12月 - 大洲藩は幕府にいろは丸を、城下町人の購入船として届け出る。また、1867年1月30日(慶応2年12月25日)に国島六左衛門が切腹(享年38)。切腹の原因については、表向き独断購入の責任を取らされたためとされるが、藩内世論の激変が背景にあったようである。国島六左衛門は長崎で切腹したが、遺体は大洲に搬送され、大洲の寿永寺の墓地に埋葬された。
- 4月 - 大洲藩は、いろは丸を坂本龍馬の海援隊の海運業務のため、一航海15日につき500両の使用契約をした。
- 5月22日(旧暦4月19日) - 龍馬は大坂に物資(鉄砲?)を運ぶために長崎を出航した。
- 5月26日(旧暦4月23日) - 紀州藩船明光丸と衝突し積荷もろとも沈没した。
[編集] いろは丸 沈没事件
[編集] 経緯
1867年5月26日(慶応3年4月23日)23時頃に伊予国大洲藩所有で海援隊が借り受けて長崎港から大坂に向かっていたいろは丸と、長崎港に向かっていた紀州藩の軍艦・明光丸が備中国笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島(北緯34度18分16.0秒 東経133度31分53.7秒 / 北緯34.304444度 東経133.531583度 )付近で衝突した。明光丸は、イギリスで建造され長さ四十二間、幅六間、深さ三間半、百五十馬力、八百八十七トンの蒸気船であった。いろは丸は大破し自力航行不能となって、船舶の修理施設の整った近くの備後国沼隈郡鞆の浦へ明光丸により曳航される途中に、鞆の南10km付近にある沼隈郡宇治島(北緯34度18分52.7秒 東経133度27分55.8秒 / 北緯34.314639度 東経133.4655度 )沖で沈没した。搭乗していた坂本龍馬はじめ海援隊士などいろは丸乗組員は明光丸に乗り移ったあと鞆の浦に上陸した。龍馬は紀州藩の用意した廻船問屋の升屋清右衛門宅や対潮楼に4日間滞在し賠償交渉を開始したが、交渉がまとまらぬうちに明光丸が長崎に向けて出港し、再交渉を行う為に後を追った。
長崎奉行所で海援隊・土佐商会および土佐藩(参政後藤象二郎)は紀伊藩(勘定奉行茂田一次郎)と争った。土佐側はミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいたと主張し、明光丸の航海日誌や談判記録を差し押さえ事件の原因を追及した。紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの、龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及した。さらに、民衆を煽り紀州藩を批判する流行歌を流行らせた。この事故は、日本で最初の海難審判事故とされている[5]。事故から1か月後に紀州藩が折れ、賠償金8万3526両198文を支払う事で決着した[6]。江戸時代後期の一両は、日本銀行金融研究所貨幣博物館によれば、現在の価値に換算すると米価から計算して3万円から5万円となり、8万3526両198文は約25億円から約42億円に当たる。
なお、2006年に行われたいろは丸の調査では、龍馬が主張した銃火器などは発見されなかった[7]。賠償金はその後紆余曲折があって、7万両に減額され、11月7日に長崎で支払われたが、その8日後の11月15日、龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺された。
御手洗航路上を西進していた明光丸を発見したいろは丸は、左に舵を取り、遅れていろは丸を発見した明光丸は右に舵をとった後、左に戻し、衝突した。衝突後、いろは丸乗組員は明光丸に乗り移ったが、当直士官が甲板にいなかったという。またその後明光丸はいったん後進していろは丸から離れたが、再び前進して再度いろは丸に衝突、これが沈没の原因となった。明光丸は乗組員全員を乗せ、いろは丸を鞆港に曳航しようとしたが途中で沈没した。[8]
[編集] 後年の調査
- 海底に沈んでいる、いろは丸が鞆の浦の有志で結成された「鞆を愛する会」によって発見された。
- 第4次海底調査(水深27m)で、船体近辺では龍馬等が主張した銃火器等は発見されなかった。[7]
- 7月27日に長崎市歴史民族資料館は、いろは丸とみられる絵図が見つかったと発表した。幕末に佐賀藩士が長崎港に入港した艦船などをつづった記録誌「白帆注進外国船出入注進」全3巻(佐賀市の鍋島報效会徴古館所蔵)に掲載されており、旗印が購入した大洲藩の《赤地に蛇の目》であることから間違いないと結論づけた[9]。
[編集] 国島六左衛門
国島六左衛門のルーツは、美濃国(岐阜市黒野)であることが岐阜市郷土史研究グループ「歴史伝承フォーラム」代表の田中豊が、2010年6月6日付「岐阜新聞」紙上で明らかにした。
- 国島家の祖先の古文書には、国島重光が、美濃国黒野城主加藤貞泰に仕え、主君貞泰が関ヶ原の戦いで徳川軍にくみし、慶長15年(1610年)に2万石を加増され現在の鳥取県米子城へ、さらに大坂冬・夏の陣に参戦し、その功によって元和3年(1617年)に大洲に転封する際にお供したと記されており『重光の子孫今に大洲加藤家にあり』という記述があった。
- 国島家は、土岐頼国の五男国仲を祖としている。国島将監重周---国島将監重範---国島将監隆重---国島恒重---国島重政---国島重光--------と系図には書かれている。
- 国島家は「土岐の三将」又は「土岐の三重(さんしげ)」国島相模守隆重、村山越後守芸重、中島監物政重、と称された名門。
- 司馬遼太郎の「国盗り物語」には、『土岐家一門の重鎮斉藤彦九郎、国島将監隆重、芦敷左近・・・・・』の記述有り。
- 司馬遼太郎の「龍馬がゆく」でも『伊予の大洲藩で顔見知りの国島六左衛門というのが、商務でやってきた』の記述がある。
- 津本陽は、「龍馬」の中で『大洲藩郡中奉行国島六左衛門が苦境に立っていた。』と書いている。
- 津本陽は、「龍馬残影」で、『郡中奉行国島六左衛門と井上将策である。国島六左衛門は、郡中三十七カ村を支配する奉行で国島六左衛門は新極流、正木流、荻野流の砲術の心得がある。時勢に遅れた火縄筒ではあるが、扱い方を心得た鉄砲の専門家であった。』と記している。
伊予史談会双書の大洲藩の伝記・家臣の記録・役職等を記述した『大洲秘録』には、国島家の記録が記されている。
- 大洲藩初代加藤貞泰より勤める/国島徳右衛門重紹---加藤泰興の小姓/国島六右衛門常慶---作事奉行/国島弥次右衛門義紹---加藤泰温の作事奉行/国島六右衛門紹昌---加藤泰候の作事奉行/国島弥時右衛門紹直----郡中奉行/国島六左衛門紹徳(1866年12月没)
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ a b 竜馬の「いろは丸」契約書発見 瀬戸内で沈没 共同通信 2010年4月23日
- ^ イギリスのグリーノック(Greenock)で建造された原名サーラ号(Sarah)とも言われている
- ^ 長年、オランダ商人アルフォンス・ボードウィンから42,500両で購入したとされてきたが、2009年12月にポルトガル語の購入契約書が見つかり定説が覆った。また、沈没時までに大洲藩の代金支払いが済んでいなかったとの説もあったが、購入時に全額支払っていたことも判明した。
- ^ 龍馬の船 購入経緯示す新史料 NHK 2010年4月23日
- ^ a b “龍馬が乗った「いろは丸」オランダ購入説覆る”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年4月25日) 2010年4月25日閲覧。
- ^ いろは丸事件での龍馬の対応 - 高知県立坂本龍馬記念館|調べる|龍馬Q&A
- ^ a b リーフレット京都 No.216(2006年12月) - (財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
- ^ 坂本龍馬といろは丸事件(2008年 二葉印刷有限会社)
- ^ 「これが竜馬のいろは丸」 毎日新聞縮刷版2010年7月号:7月28日(水)23面