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クイーンコーラル2

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クイーンコーラル2
関西汽船「くいーんふらわあ2」(1986年)
基本情報
船種 フェリー
船籍 日本の旗 日本
所有者 照国郵船
来島どっく
来島興産
関西汽船
運用者 照国郵船
関西汽船
建造所 林兼造船長崎工場
母港  鹿児島
大阪
航行区域 近海第2種[1]
船級 JG[1]
信号符字  JRHI
IMO番号 7401966
改名 クイーンコーラル2
くいーんふらわあ2
Saint Francis of Assisi
経歴
起工 1974年10月5日[1]
進水 1974年12月28日[1]
竣工 1975年4月30日[2]
就航 1975年4月
要目
総トン数 6,801 トン[2]
載貨重量 1,970 トン[2]
排水量 7,347 トン[1]
全長 140.1 m[2]
垂線間長 122.0 m[1]
18.5 m[2]
型深さ 7.0 m[2]
満載喫水 5.8m(夏期)[2]
機関方式 ディーゼル
主機関 三菱-MAN V6V52/55 2基[1]
推進器 可変ピッチプロペラ 2軸
最大出力 24,000馬力[1]
定格出力 21,600馬力[1]
最大速力 24.4ノット[2]
航海速力 23.0ノット[2]
航続距離 2,700海里[2]
旅客定員 1,080名(通常時)[1]
1,415名(臨時客含む)[2]
乗組員 85名[2]
車両搭載数 乗用車99台[2]
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クイーンコーラル2は、照国郵船が運航していたフェリー。後に関西汽船でも運航された。

概要[編集]

照国郵船のフェリー第二船として林兼造船長崎工場で建造され、1975年4月に就航した。

ニュークイーンコーラルの就航により引退、来島どっくに売却された。

1983年関西汽船に傭船され[3]ゆふ丸の代船として別府航路に就航した。 1984年1月にくいーんふらわあ2に改名した。 1988年来島興産に移籍。 1990年11月、さんふらわあさんふらわあ2くるしま7フェリーくろしおとともに22億5千万円で来島興産から関西汽船に売却された。 1995年2月、別府航路の減便により引退した[3]

その後、海外売船され、フィリピンスーパーフェリー英語版Saint Francis of Assisiとして就航したが、1999年に廃船になった。

航路[編集]

照国郵船

関西汽船

設計[編集]

クイーンコーラル (初代)の拡大型であり、同様な豪華な設備のコンセプトで建造された[2]。クイーンコーラルと同様に冷蔵 貨物倉を有していた他、こちらは当初より左舷側に大型サイドランプを有し、少数ながらトラックの積載が可能であったものの、やはり貨物輸送能力はごく限られており、航路事情にはそぐわない不経済船となった。クイーンコーラルと同様に、後に甲板上に12ftコンテナの積載能力を付与する改装を受けた。

船内[編集]

内装は南国の太陽と青い海を象徴しつつ個性的かつシンプルなデザインを心がけた[2]

遊歩甲板[2]
  • サンロンジ
A甲板[2]
  • ラウンジ・バー
  • 貴賓室
  • 特別室
  • 特1等室
  • ホール
  • ロビー
  • スナック
  • 居酒屋
  • レストランシアター
  • サンデッキ
B甲板[2]
  • 1等室
  • 特2等客室
  • 2等客室
  • ホール
C甲板[2]
  • 2等室
  • エントランスホール
  • 売店
  • ゲームルーム
  • 車両甲板
D甲板[2]
  • 車両・貨物甲板

事故[編集]

  • 1991年8月8日、22時10分頃神戸港内で大阪港から神戸港中突堤へ向かっていた本船と、高知県足摺港から東神戸フェリーターミナルへ向かっていたフェリーむろとが本船の進路を避けず衝突、両船の乗客のうち7名が軽傷を負った[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 新造船写真集 貨客船QUEEN CORAL 2 照国郵船株式会社 - 船の科学
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 林兼造船長崎造船所設計部「高速貨客船クイーンコーラル2」 - 船舶1975年7月号(天然社)
  3. ^ a b c 是則直道「老兵は死なず、消え去る-或る在来客船の引退」 - 旅客船193号(日本旅客船協会 1995年)
  4. ^ 長距離フェリー航路の概要 平成6年1月1日現在 - 内航近海なんでもデータ集1995年版(内航ジャーナル)
  5. ^ 旅客船くいーんふらわあ2旅客船フェリーむろと衝突事件 - 海難と審判113号(海難審判協会 1994年)