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{{基礎情報 君主
{{基礎情報 君主
| 人名 = ルノー・ド・シャティヨン
| 人名 = ルノー・ド・シャティヨン
| 各国語表記 = Renaud de Châtillon
| 各国語表記 = Renaud de Châtillon
| 君主号 = アンティオキア公
| 君主号 = アンティオキア公<br>ヘブロンおよびモンレアル領主
| 画像 = ReynaldofChatillon&PatriarchofAntioch.jpg
| 画像 = ReynaldofChatillon&PatriarchofAntioch.jpg
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| 画像サイズ = 240px
| 画像説明 = {{仮リンク|アンティオキア総大司教|en|Latin Patriarchate of Antioch}}の{{仮リンク|エムリー・ド・リモージュ|en|Aimery of Limoges}}を拷問するルノー・ド・シャティヨン([[ギヨーム・ド・ティール]]が著した『歴史』とその『続編』の13世紀後半の写本より)
| 画像説明 =
| 在位 = [[アンティオキア公]]<br>[[1153年]] - 1160/1年<br>{{仮リンク|トランスヨルダン (十字軍領)|label=トランスヨルダン領主|en|Oultrejordain}}<br>[[1176年]] - [[1187年]]
| 在位 = [[1153年]] - [[1160年]]
| 戴冠日 =
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| 別号 =
| 別号 =
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| 配偶号 =
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| 出生日 = 1124年頃
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| 没地 = {{仮リンク|ヒッティーン|en|Hittin}}
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| 埋葬日 =
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| 子女 = [[アニェス・ダンティオケ|アニェス]]<br>アリス
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| 王家 = [[シャティヨン家]]
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| 父親 = アンリ1世・ド・シャティヨン?
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| 王朝 =
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| 父親 = エルヴェ2世・ド・ドンジー
| 母親 = 名前の不明なユーグ・ド・ブランの娘
| 宗教 = [[カトリック]]
| サイン =
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'''ルノー・ド・シャティヨン'''({{lang-fr|Renaud de Châtillon}}, 1125年頃 - [[1187年]][[7月4日]])は、[[フランス王国|フランス]]の[[騎士]]。1147年に[[第2回十字軍]]に参加し、1153年に[[アンティオキア公]]の[[スタンス (アンティオキア女公)|ンスス女公]]と結婚し、アンティオキア公となる。[[ヒッティの戦い]]で捕らえられ、[[サラーフッディーン|サラーフッディーン(サラディン)]]自彼を処刑したといわれる。対イスラム強硬派であることに加えて、敵に対しては容赦なく略奪の限りを尽くしたために[[強盗騎士]]と悪名高く、[[キリスト教]]穏健派や[[東ローマ帝国]]関係者、[[イスラム教徒]]各々から忌み嫌わた存在だった。
'''ルノー・ド・シャティヨン'''({{lang-fr|Renaud de Châtillon}}, 1124年頃 - [[1187年]][[7月4日]])は、[[フランス王国|フランス]]貴族息子として生まれ、1147年に[[第2回十字軍]]に参加したのち[[エルサレム王国]]に留まり婚姻を通じて最初に[[アンティオキア公]]、次いでエルサレム王国の[[摂政]]と{{仮リク|トランスヨルダン (十字軍領)|label=トランスヨルダ|en|Oultrejordain}}([[ヨルダン川]]東岸地域)の領主を務めた人物である。最後はルノーの違反を口実にエルサレム王国へ侵攻した[[サラーフッディーン]](サラディンの呼び名でも知られるに[[ヒッティーンの戦い]]で敗れ、捕虜なっ処刑された。


1124年頃に{{仮リンク|ドンジー|en|Donzy}}領主の息子として生まれたルノーは1147年に[[フランス王]][[ルイ7世]]の軍に加わって第2回十字軍に参加し、2年後にフランス軍が撤退したのちも[[エルサレム王国]]に留まり、国王の[[ボードゥアン3世 (エルサレム王)|ボードゥアン3世]]の下で[[アシュケロン|アスカロン]]の{{仮リンク|アスカロン包囲戦|label=包囲戦|en|Siege of Ascalon}}に参加した。その後、[[アンティオキア公国]]の公女である[[コンスタンス (アンティオキア女公)|コンスタンス]]と結婚し、アンティオキア公の地位を手にした。アンティオキア公時代の1156年には当時[[ビザンツ帝国]]領であった[[キプロス島|キプロス]]を3週間にわたり略奪したが、後に皇帝[[マヌエル1世コムネノス]]に率いられたビザンツ軍による侵攻を招くことになり、最終的に屈辱的な条件による講和を強いられた。その後、1160年か1161年に[[ユーフラテス川]]流域を襲撃した帰路に[[ザンギー朝]]の将軍に捕らえられ、[[アレッポ]]で監禁された。
== 生涯 ==
ルノーは[[シャンパーニュ]]の中流の貴族[[シャティヨン家]]に生まれた。彼の一族には[[第1回十字軍]]の呼びかけを行った[[教皇]][[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]がいる。
武装巡礼として中東を訪れて[[エルサレム国王一覧|エルサレム王]][[ボードゥアン3世 (エルサレム王)|ボードゥアン3世]]に仕官し{{Sfnp|アンドリュー・ジョティシュキー|2013|p=145}}、1147年に[[第2回十字軍]]に参加した。ルノーは前夫を亡くしていたアンティオキア公国のコンスタンスと1153年に結婚してアンティオキア公となる。良家の出身で軍事経験があり、国政に関与しない取り巻きを持たないルノーの婿入りは当初アンティオキア側から歓迎された{{Sfnp|アンドリュー・ジョティシュキー|2013|p=145}}。しかし、強引な手法はアンティオキアの家臣から不満を持たれ、[[アレッポ]]を支配する[[ザンギー朝]]からも嫌悪された{{Sfnp|アミン・マアルーフ|1986|p=237}}。


ルノーの監禁生活は15年に及んだが、1176年に解放されると1177年にはエルサレム王国のトランスヨルダン領の相続人であった{{仮リンク|ステファニー・ド・ミイィ|en|Stephanie of Milly}}と結婚し、トランスヨルダンの領主となった。国王の[[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]]からは[[ヘブロン]]も与えられ、王国内で強い影響力を持つ人物となった。さらにイスラーム勢力への敵対姿勢を明確に打ち出し、1183年には海軍による[[紅海]]への遠征にも乗り出した。1185年と1186年にボードゥアン4世とその後継者の{{仮リンク|ボードゥアン5世 (エルサレム王)|label=ボードゥアン5世|en|Baldwin V of Jerusalem}}が相次いで死去すると、[[テンプル騎士団]]などとともにボードゥアン4世の姉の[[シビーユ (エルサレム女王)|シビーユ]]とその夫の[[ギー・ド・リュジニャン]]を支持し、反対派を押し切って両者を国王に推戴した。しかし、ルノーは[[エジプト]]と[[シリア]]の一部を支配していたサラーフッディーンとエルサレム王国の間で結ばれていた停戦条約をたびたび破り、エジプトとシリアの間を往来する[[キャラバン]]を襲撃したことで、最終的にサラーフッディーンの怒りを買うことになった。そのサラーフッディーンは1187年にエルサレム王国に対する聖戦([[ジハード]])を宣言し、自身の支配地から軍隊を招集した。
アンティオキア公となったルノーは1156年に東ローマ帝国の支配下にある[[キプロス島]]での略奪を企て、アンティオキア総大司教エムリー・ド・リモージュに軍費の負担を要求した。要求を拒んだエムリーを監禁して拷問にかけた末に軍費を獲得し、1156年春にルノーの部隊がキプロス島を襲撃した{{Sfnp|アミン・マアルーフ|1986|p=237}}。田畑と建物は破壊され、島の住民は暴行、誘拐、あるいは殺害された{{Sfnp|アミン・マアルーフ|1986|p=237}}。さらにルノーは島の正教会の聖職者をすべて集めて彼らの鼻を削ぎ落とし、[[コンスタンティノープル]]に送り返した{{Sfnp|アミン・マアルーフ|1986|p=237}}。[[1157年]]にボードゥアン3世の支援を受けてアルター要塞を奪回したが、東ローマ帝国とザンギー朝から圧力を受ける。東ローマとの友好関係の確立を図るボードゥアン3世の説得を受け、ルノーは東ローマに屈服する{{Sfnp|アンドリュー・ジョティシュキー|2013|p=146}}。また、1157年から[[1160年]]にかけての時期には君主の[[ヌールッディーン]]が病に罹ったザンギー朝の拡大が停滞し、ルノーはこの機会に乗じて領地を拡大する{{Sfnp|ジョルジュ・タート|1993|p=88}}。1160年{{Sfnp|ジョルジュ・タート|1993|p=90}}/[[1161年|61年]]{{Sfnp|アンドリュー・ジョティシュキー|2013|p=147}}にルノーはヌールッディーンの捕虜となり、15年間[[アレッポ]]に幽閉される{{Sfnp|アンドリュー・ジョティシュキー|2013|p=147}}。


これに対しルノーは国王のギーを説得してサラーフッディーンに決戦を挑んだものの、ヒッティーンの戦いで大敗を喫して捕虜となり、最後はサラーフッディーンから背信行為の数々を非難された末に処刑された。現代の歴史家の多くはルノーについて、イスラーム教徒に対する以上にキリスト教徒に害をもたらした無責任な人物とみなし、ルノーの戦利品への欲望がエルサレム王国に危機的な状況を招いたと考えている。しかし、バーナード・ハミルトンのような一部の歴史家は、サラーフッディーンの手によって近隣のイスラーム諸国が統一されていく状況を阻止しようとした唯一の十字軍指導者だったとしてルノーの肯定的な面を評価している。
[[1176年]]に多額の身代金で解放された後、[[エルサレム王国]]に現れたルノーは、エティエネット・ド・ミリー(Etienette de Milly / Stephanie de Milly、テンプル騎士団長フィリップ・ド・ミリーの娘)と結婚してその所領であったヨルダン川東岸の[[カラク (ヨルダン)|カラク]]の城を手に入れ、カラクを拠点とするトランスヨルダン領の領主となった。エルサレム王の軍の指揮官ともなったルノーは、[[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]]が1177年にサラーフッディーンを破った[[モンジザールの戦い]]に参加した。その後、ルノーはボードゥアン4世とサラーフッディーンの間に和平が結ばれたにもかかわらず、[[1181年]]に[[マディーナ|メディナ]]を襲う姿勢を見せた。進軍中に牽制を受けて退却したが、隊商から200,000枚の金貨を略奪し、[[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]]の返還命令を拒絶した{{Sfnp|ジョルジュ・タート|1993|p=103}}。[[1182年]]冬{{Sfnp|ジョルジュ・タート|1993|p=104}}/[[1183年]]1月{{Sfnp|佐藤|1996|p=156}}に[[メッカ]]・メディナに向けて進軍し、紅海貿易を掌握するために艦隊を出動させる{{Sfnp|佐藤|1996|p=156}}。しかし、ルノーの艦隊は[[アイザーブ]]沖でエジプト軍に撃破され、生き残った170人の捕虜は[[カイロ]]で処刑された{{Sfnp|佐藤|1996|p=136}}。


== 出自と初期の経歴 ==
これに怒ったサラーフッディーンは、1183年にカラク城で行われていたルノーの義理の息子であるオンフロワと[[イザベル1世 (エルサレム女王)|エルサレム王女イザベル]]との結婚式を襲撃した。カラクはサラーフッディーンの弟[[アル=アーディル]]の包囲を受けたが、天然の要害であるカラクは1か月を越える包囲に持ちこたえた{{Sfnp|佐藤|1996|p=157}}。1184年7月にカラクはサラディン、アーディルによって再び包囲を受けたが、援軍の到着によって窮地を脱した{{Sfnp|佐藤|1996|p=157}}。エルサレム王[[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]]の救援でカラク城は救われたものの、立場が弱くなったルノーは[[ギー・ド・リュジニャン]]と連携し、トリポリ伯[[レーモン3世 (トリポリ伯)|レーモン3世]]と対抗した。
ルノーは[[フランス王国|フランス]]の{{仮リンク|ドンジー|en|Donzy}}領主エルヴェ2世の下の息子として生まれた{{sfn|Hamilton|2000|p=104}}{{sfn|Barber|2012|p=201}}。古い歴史書ではルノーは[[ジアン]]伯ジョフロワの息子とされているが{{sfn|Runciman|1989|p=345}}、現代の歴史家である{{仮リンク|ジャン・リシャール|en|Jean Richard (historian)}}はルノーとドンジー領主の間の血縁関係の存在を論証した{{efn2|ルノーと同時代の歴史家である{{仮リンク|エルヌール|en|Ernoul}}は、ルノーがフランスの「ジエンの領主の兄弟」であったと述べている。リシャールは年代的な理由から、このジエンの領主はドンジー領主のジョフロワ2世の兄弟であり、1153年に花嫁の持参金として{{仮リンク|ジエン城|en|Château de Gien}}を娘のアリックスに与えたエルヴェ以外には考えにくいとしている。この二人の兄弟もルノーと同様にエルヴェ2世・ド・ドンジーの息子であった{{sfn|Richard|1989|pp=410, 416}}。}}。ドンジー領主の一族は[[ブルゴーニュ公国]](現在のフランス西部)の有力貴族であり、後期[[ローマ帝国]]時代の著名な[[ガロ・ローマ]]系貴族の一門であったパッラディーの子孫だと主張していた{{sfn|Hamilton|2000|p=104}}{{sfn|Richard|1989|pp=412–413}}。ルノーの母親は{{仮リンク|ラ・フェルテ=ミロン|en|La Ferté-Milon}}の領主であったユーグ・ド・ブランの名前の不明な娘である{{sfn|Richard|1989|p=410}}。


1124年頃に生まれたルノーは{{仮リンク|シャティヨン=シュル=ロワール|en|Châtillon-sur-Loire}}の領主の地位を相続した{{sfn|Hamilton|2000|p=104}}{{sfn|Cotts|2021|p=43}}。その数年後にルノーは[[フランス王]][[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]](在位:1137年 - 1180年)に宛てた手紙の中で、自分の世襲財産の一部が「暴力的かつ不当に没収された」として不満を漏らしている。歴史家の{{仮リンク|マルコム・バーバー|en|Malcolm Barber}}は、恐らくこの出来事がルノーに祖国を離れ[[十字軍国家]]へ向かわせるきっかけになったのだろうと述べている{{sfn|Barber|2012|p=206}}{{efn2|[[エデッサ伯国]]、[[アンティオキア公国]]、[[エルサレム王国]]、[[トリポリ伯国]]といった十字軍国家は1098年から1105年にかけて行われた[[第1回十字軍]]の結果、西欧の貴族たちによって中東地域に建国された。狭く細長い土地を占領していた十字軍国家はその存続を外部からの支援に依存しており、国家の指導者たちはしばしばヨーロッパの[[カトリック]]の支配者たちに救援を求めた{{sfn|Barber|2012|pp=4–25}}。}}。そのルノーは1147年の[[第2回十字軍]]の遠征の際にルイ7世の軍に加わってエルサレム王国に向かい、2年後にフランス軍が遠征を断念した時に現地に留まることを選択した{{sfn|Barber|2012|p=206}}{{sfn|Hamilton|2000|p=98}}。その後は1153年の初頭に[[エルサレム王]][[ボードゥアン3世 (エルサレム王)|ボードゥアン3世]](在位:1143年 - 1163年)の軍に加わり、[[アシュケロン|アスカロン]]の{{仮リンク|アスカロン包囲戦|label=包囲戦|en|Siege of Ascalon}}で戦ったことが知られている{{sfn|Hamilton|1978|p=98 (note 8)}}。
1187年にルノーはイスラム教徒の商人への襲撃を再開し、多くの捕虜をカラクに連行する。サラーフッディーンはルノーの行為を非難し、捕虜の釈放と戦利品の返還を要求したが、ルノーは使者との面会を拒絶した{{Sfnp|佐藤|1996|p=167}}。1187年3月に[[ジハード]](聖戦)を宣告したサラーフッディーンが[[パレスチナ]]に進軍した後、ルノーはギー、レーモンらと合流する。7月4日の[[ヒッティーンの戦い]]でギーが率いる十字軍は大敗し、ルノーはギーとともに捕らわれた。ルノーとギーはサラーフッディーンの前に引き出され、ギーは生命の安全を保障されたが、ルノーは以前からの数々の背信行為を非難された後、サラーフッディーンの手によって断首された{{Sfnp|佐藤|1996|p=171}}。


予想外なことに、ルノーはそのアスカロンの包囲戦が終わる前にアンティオキア公女の[[コンスタンス (アンティオキア女公)|コンスタンス]]と婚約した。ルノーとは政治的に対立関係にあった12世紀の歴史家の[[ギヨーム・ド・ティール]]は、ルノーを「一種の雇われ騎士のようなもの」と評し、婚約当時のルノーとコンスタンスの間には距離的な隔たりがあったことを強調している{{sfn|Barber|2012|p=206}}{{sfn|Hamilton|1978|p=98 (note 8)}}。そのコンスタンスは[[アンティオキア公]][[ボエモン2世 (アンティオキア公)|ボエモン2世]](在位:1111年または1119年 - 1130年)の跡を継いだ一人娘だったが、1148年6月28日に起こった[[イナブの戦い]]で夫の[[レーモン・ド・ポワティエ]]が戦死し、未亡人となっていた{{sfn|Barber|2012|pp=152–153}}{{sfn|Lock|2006|pp=40, 50}}。ボードゥアン3世(コンスタンスの従兄弟にあたる)は[[アンティオキア]]の防衛を確実なものにするため、レーモンの死後の数年間に少なくとも3回にわたり軍隊を率いてアンティオキアに赴いた。そしてコンスタンスに対し再婚するように説得を試みたものの、コンスタンスはボードゥアン3世が示した候補者たちを受け入れなかった。さらに、コンスタンスは[[ビザンツ皇帝]][[マヌエル1世コムネノス]](在位:1143年 - 1180年)がコンスタンスの夫候補として持ち掛けた{{仮リンク|ヨハネス・ロゲリオス・ダラッセノス|en|John Rogerios Dalassenos}}も拒否していた{{sfn|Runciman|1989|pp=330–332, 345}}{{sfn|Buck|2017|pp=77–78}}。ルノーとコンスタンスはボードゥアン3世が結婚を許可するまでこの婚約を秘密にしていた{{sfn|Runciman|1989|p=345}}{{sfn|Barber|2012|p=206}}。歴史家のアンドリュー・D・バックは、ルノーがボードゥアン3世に仕えていたことから、国王の許可が必要であったと指摘している{{sfn|Buck|2017|p=78}}。『{{仮リンク|エラクル年代記|en|Estoire d'Eracles}}』の名で知られる13世紀前半に著された年代記は、ボードゥアン3世がこの結婚を快く認めた理由について、自分の王国から「非常に離れた土地(すなわちアンティオキア)を防衛する」義務から解放されたからだと記している{{sfn|Buck|2017|p=228}}。
== 子女 ==
* [[アニェス・ダンティオケ|アニェス]](1154年頃 - 1184年頃) - [[ハンガリー王]][[ベーラ3世 (ハンガリー王)|ベーラ3世]]と結婚
* アリス(1235年没) - アッツォ6世・デステと結婚


== アンティオキア公時代 ==
== 脚注 ==
[[File:Map Crusader states 1165-en.svg|thumb|right|220px|1165年頃の十字軍国家とその周辺地域を示した地図(アンティオキア公国は中央上部の青色部分)]]
{{Reflist}}
ボードゥアン3世の同意を得たコンスタンスはルノーと結婚した{{sfn|Runciman|1989|p=345}}{{sfn|Barber|2012|p=206}}{{sfn|Baldwin|1969|p=540}}。ルノーは1153年5月かその少し前にアンティオキア公となり{{sfn|Runciman|1989|p=345 (note 1)}}、同じ月に[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]商人の特権を追認した{{sfn|Runciman|1989|pp=345–346 (note 1)}}。ギヨーム・ド・ティールは、臣下たちが「著名で、影響力があり、良家の出の」公女が身分の低い男と結婚したことに驚いたと記録している{{sfn|Hamilton|1978|p=98 (note 8)}}。しかし、歴史家のアンドリュー・ジョティシュキーは、ルノーについて、西方の良家の出身であり、国に危険をもたらすような取り巻きもなく軍事経験もあったため、政治的には好ましい人物だったと述べている{{sfn|ジョティシュキー|2013|p=145}}。また、ルノーのものと認識できる硬貨は現存しておらず、バックによれば、このことはルノーの立場が比較的弱かったことを示している。レーモン・ド・ポワティエが発給した証書のおよそ半分がコンスタンスに言及することなく発給されていたのに対し、ルノーの証書の場合は常に妻の同意を経て決定を下したと記されている{{sfn|Buck|2017|pp=78–79, 116}}。その一方でルノーはジョフロワ・ジョルダニスをコネタブル(軍務長官)に、ジョフロワ・ファルサールをアンティオキアの[[ドゥクス]]に任じるなど、最上級の官職の任命権は掌握していた{{sfn|Buck|2017|p=90}}{{efn2|アンティオキアのドゥクス(dux)は公国に存在した11の最高位の官職の1つであったが、国家運営におけるドゥクスの役割に関する詳細な情報は参照することができる史料の中には残されていない{{sfn|Buck|2017|pp=88–89}}。}}。


[[ノルマン人]]の年代記作家の{{仮リンク|ロベール・ド・トリニ|en|Robert of Torigni}}は、ルノーがアンティオキア公となってすぐに[[アレッポ]]人から3つの要塞を奪ったと記録しているが、これらの要塞の名前については言及していない{{sfn|Buck|2017|p=42}}。また、アンティオキアの裕福な[[総大司教]]であった{{仮リンク|エムリー・ド・リモージュ|en|Aimery of Limoges}}はコンスタンスの再婚に不快感を隠さなかった。バーバーが強調しているように、ルノーは「ひどく金に困っていた」にもかかわらず、エムリーはルノーへ支援金を支払うことを拒否していた。1154年の夏にルノーはエムリーを拘束して拷問し、裸にさせて体に蜂蜜を塗ったまま太陽の下に座らせ、その後投獄した。エムリーはボードゥアン3世の要求によってようやく釈放されたが、すぐにアンティオキアから[[エルサレム]]へ逃亡した{{sfn|Baldwin|1969|p=540}}{{sfn|Buck|2017|p=104}}{{sfn|Barber|2012|p=209}}。意外なことに、高位の聖職者を虐待したにもかかわらず、この時ルノーは破門されなかった。バックはエムリーが以前[[ティルス|ティール]]の大司教の地位をめぐって[[教皇庁]]と対立していたため、ルノーは処罰を免れたのだと論じている。しかし、アンティオキアと[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]の間で対立が起きた結果、エムリーは教皇庁の要求に応じて同年のうちにルノーを破門した{{sfn|Buck|2017|pp=104–105, 107}}。

アンティオキアに対する宗主権を主張していたビザンツ皇帝マヌエル1世は使節をルノーに派遣し{{efn2|コンスタンスの父方の祖父で{{仮リンク|イタロ・ノルマン人|label=イタロ・ノルマン|en|Italo-Normans}}系の貴族であった[[ボエモン1世 (アンティオキア公)|ボエモン1世]](在位:1098年 - 1111年)は、かつてのビザンツ帝国の領土にアンティオキア公国を建国したが、ビザンツ帝国はこの地域に対する領有権の主張を決して放棄しようとはしなかった。当初、ボエモン1世は1108年に結ばれた{{仮リンク|ディアボリス条約|en|Treaty of Devol}}によってアンティオキア公国に対するビザンツ帝国の宗主権を認めさせられたが、この条約が実効性を持つことはなかった。その後、1137年に[[レーモン・ド・ポワティエ]]はビザンツ皇帝[[ヨハネス2世コムネノス]](在位:1118年 - 1143年)に対する忠誠を宣言した{{sfn|Morton|2020|p=43}}{{sfn|Barber|2012|pp=83, 169–170}}。}}、[[ビザンツ帝国]]による支配に反旗を翻した[[キリキア]]の[[アルメニア人]]に対する軍事行動を開始するならばルノーを新しいアンティオキア公として承認すると提案した{{efn2|[[キリキア]]の山岳地帯に割拠していたアルメニア人軍閥の指導者たちは十字軍国家の成立を利用してビザンツ帝国やトルコ人の隣国に対する立場を強化した。[[キリキア・アルメニア王国]]の{{仮リンク|ルーベン朝|en|Rubenids}}は十字軍(あるいは[[フランク人]])と密接に協力し、しばしばアンティオキア公の宗主権を受け入れた{{sfn|Morton|2020|pp=85–86}}。}}。さらに、軍事行動にかかる費用をルノーに補償することも約束した{{sfn|Baldwin|1969|p=540}}。ルノーは1155年に[[アレクサンドレッタ]]でアルメニア人を破ったが、その後、アルメニア人がこの衝突から少し前の時期に侵略していたシリア門(現代の{{仮リンク|ベレン峠|en|Belen Pass}})の一帯を[[テンプル騎士団]]が支配するようになった{{sfn|Runciman|1989|p=346}}。はっきりとした史料の裏付けはないものの、バーバーと歴史家の[[スティーヴン・ランシマン]]は、ルノーがこの地域の領地をテンプル騎士団に与えたする見解を示している{{sfn|Barber|2012|p=209}}{{sfn|Runciman|1989|p=346}}。

常に資金を必要としていたルノーはマヌエル1世に対し約束していた補償金を送るように促したが、マヌエル1世はその支払いを怠った{{sfn|Barber|2012|p=209}}。結局、ルノーは[[キリキア・アルメニア王国]]の君主である{{仮リンク|トロス2世|en|Thoros II}}(在位:1144/5年 - 1169年)と同盟を結んだ。両者は1156年の初頭に[[キプロス島|キプロス]]を攻撃し、繁栄していたビザンツ帝国の島を3週間にわたり略奪した{{sfn|Runciman|1989|p=347}}{{sfn|Morton|2020|p=130}}{{efn2|この時のキプロスへの侵攻では略奪行為の他にも町への放火や住民の虐殺といった残虐行為も行われていた{{sfn|根津|1999|p=204}}。}}。その後、ビザンツ帝国の艦隊がキプロスに接近しているという噂を聞きつけると両者はキプロスから去ったが、その際にマヌエル1世の甥にあたる{{仮リンク|ヨハネス・ドゥーカス・コムネノス|en|John Doukas Komnenos}}を含む特に裕福な複数の人物を捕虜としてアンティオキアに連行し、残りの全てのキプロス人に対し身代金の支払いを強要した{{sfn|Runciman|1989|p=347}}{{sfn|Baldwin|1969|p=541}}。

ボードゥアン3世は[[フランドル伯]][[ティエリー・ダルザス]]とその軍隊が聖地([[パレスチナ]])に駐留していたことと、[[シリア]]北部のほとんどの都市が地震によって破壊された状況を利用し、1157年の秋に[[オロンテス川]]流域のイスラーム教徒の支配地に侵攻した{{sfn|Runciman|1989|p=348}}。ルノーはボードゥアン3世の軍隊に加わり、{{仮リンク|シャイザル|en|Shaizar}}を包囲した{{sfn|Baldwin|1969|p=541}}{{sfn|Runciman|1989|p=348}}。この時点でのシャイザルは[[シーア派]]の流れを汲む[[暗殺教団]]の支配下に置かれていたが、地震が起こる以前はルノーに毎年貢納金を支払っていた[[スンナ派]]の{{仮リンク|ムンキズ族|en|Banu Munqidh}}の本拠地であった{{sfn|Runciman|1989|p=348}}。ボードゥアン3世はティエリーにシャイザルの要塞を与えるつもりだったが、ルノーはこの町と引き換えにティエリーが自分に対し[[臣従礼]]を取るように要求した。しかし、ティエリーは成り上がり者への忠誠の宣言を拒絶し、最終的に十字軍は町の包囲を断念した{{sfn|Baldwin|1969|p=542}}。その後、十字軍は{{仮リンク|ハーリム (シリア)|label=ハーリム|en|Harem, Syria}}に進軍した。そのハーリムは1150年に[[ザンギー朝]]の君主である[[ヌールッディーン]]が攻略するまではアンティオキア人の要塞であった{{sfn|Runciman|1989|pp=327,349}}。1158年2月に十字軍がハーリムを占領すると、ルノーは[[フランドル]]出身の騎士である{{仮リンク|ルノー・ド・サン=ヴァレリー|de|Rainald von Saint-Valery}}にハーリムを与えた{{sfn|Baldwin|1969|p=542}}{{sfn|Runciman|1989|p=349}}。

ルノーとトロス2世によるキプロスへの襲撃に対する報復として、1158年12月にマヌエル1世が突然キリキアに侵攻し、攻撃を受けたトロス2世は山中への避難を余儀なくされた{{sfn|Baldwin|1969|p=543}}{{sfn|Barber|2012|p=213}}。本格的なビザンツ軍の侵攻を前にして抵抗できなかったルノーは皇帝に対し自ら進んで服従の意志を示すために{{仮リンク|モプスエスティア|label=マミストラ|en|Mopsuestia}}へ急行した{{sfn|根津|1999|p=204}}{{sfn|Runciman|1989|p=349}}{{sfn|Baldwin|1969|p=543}}。ルノーとその家臣たちはマヌエル1世の要求に応じて頭に何も冠ることなく素足のまま町中を歩き、皇帝の天幕まで行くとそこでひれ伏して慈悲を求めた{{sfn|Runciman|1989|p=352}}{{sfn|根津|1999|p=205}}。ルノーが屈辱を強いられた場には近隣のイスラーム教徒やキリスト教徒の支配者たちから派遣された使者も同席していたため、ギヨーム・ド・ティールはこの出来事について、「ラテン世界の栄光は恥辱に転じた」と述べている{{sfn|Hamilton|1978|p=98}}{{sfn|根津|1999|pp=204–205}}。マヌエル1世はアンティオキアに[[ギリシア正教]]の[[総主教]]を置くように要求した。この要求はすぐには受け入れられなかったが、その一方で当時[[ラタキア]]のカトリックの司教であったジェラールがエルサレムへの転出を余儀なくされたとする文書の証拠が残っている{{sfn|Buck|2017|p=105}}。ルノーは必要な時にはいつでもビザンツ軍の守備隊が城塞に駐留することを認め、ビザンツ軍とともに戦う部隊を派遣することを誓約させられた{{sfn|Runciman|1989|p=352}}。それから間もなくエルサレム王のボードゥアン3世もマヌエル1世の下を訪れ{{efn2|ボードゥアン3世はマヌエル1世の姪の{{仮リンク|テオドラ・コムネナ (エルサレム王妃)|label=テオドラ|en|Theodora Komnene, Queen of Jerusalem}}と結婚しており、当時のエルサレム王国とビザンツ帝国は同盟関係にあった。この時ボードゥアン3世がマヌエル1世の下を訪れた目的の一つはアンティオキア公国を自らの影響下に置くことに対するビザンツ皇帝の承認を取り付けることにあったが、マヌエル1世はルノーのアンティオキア公の地位を安堵した{{sfn|根津|1999|pp=206–207}}。ビザンツ学者の[[根津由喜夫]]は、その意図について、十字軍諸国が一人の君主の下に統合されるのを防ぎ、分断された状況を維持することで周辺諸国に対するビザンツ帝国の優位な立場を維持することにあったと述べている{{sfn|根津|1999|pp=211–212}}。}}、アンティオキアに総主教を置くことを認める代わりに総大司教のエムリーをアンティオキアへ戻すことにも同意するようにマヌエル1世を説得し、これを認めさせた{{sfn|Barber|2012|p=213}}{{sfn|Runciman|1989|p=353}}。マヌエル1世は1159年4月12日に非常に壮麗な儀式を伴いながらアンティオキアに入城したが、この時ルノーはマヌエル1世の馬の馬具を手に取りながら徒歩で行進していた{{sfn|Barber|2012|p=213}}{{sfn|Runciman|1989|p=353}}{{sfn|根津|1999|p=208}}。マヌエル1世はしばらくアンティオキアに滞在し、8日後に町を離れた{{sfn|根津|1999|p=208}}{{sfn|Runciman|1989|p=354}}。

ルノーは1160年11月か1161年に略奪のために[[ユーフラテス川]]流域で奇襲を仕掛け、[[マラシュ]]では現地の農民から牛や馬、さらにはラクダを奪った{{sfn|Baldwin|1969|p=546}}{{sfn|Runciman|1989|p=357}}{{sfn|Barber|2012|p=214}}。ヌールッディーンのアレッポの軍司令官であったマジュドゥッディーンは兵を集め(同時代の歴史家であるエデッサのマタイオスによれば1万人)、アンティオキアへ戻る途中のルノーとその従者を攻撃した{{sfn|Baldwin|1969|p=546}}{{sfn|Morton|2020|p=133}}。ルノーは戦おうとしたが、馬から落とされて捕えられた。そしてアレッポに送られ、そこで投獄された{{sfn|Runciman|1989|p=357}}。

== 捕囚時代 ==
[[File:Rnaud prissonier.jpg|thumb|right|260px|アレッポで投獄されるルノーの様子が描かれているギヨーム・ド・ティールが著した『歴史』とその『続編』の14世紀中頃の写本]]
ルノーが投獄された期間は15年に及んだが、その間の生活がどのようなものであったのかはほとんど知られていない{{sfn|Hamilton|1978|p=98}}。ルノーは自分と同様に数か月前に捕らえられていたエデッサ伯{{仮リンク|ジョスラン3世|en|Joscelin III}}と同じ牢獄で過ごした{{sfn|Runciman|1989|p=358}}{{efn2|エデッサ伯国自体は[[ザンギー朝]]を樹立した[[イマードゥッディーン・ザンギー]]によって1144年に[[シャンルウルファ|エデッサ]]を{{仮リンク|エデッサ包囲戦 (1144年)|label=攻略され|en|Siege of Edessa (1144)}}、すでに消滅していた。このエデッサ陥落の事件は[[第2回十字軍]]が派遣される契機となった{{sfn|太田|2011|pp=21,39-40}}。}}。ルノーが不在の間、コンスタンスは単独統治を望んだが、ボードゥアン3世はコンスタンスの15歳の継子である{{仮リンク|ボエモン3世 (アンティオキア公)|label=ボエモン3世|en|Bohemond III of Antioch}}を支持し、総大司教のエムリーを[[摂政]]に付けた{{sfn|Baldwin|1969|p=546}}{{sfn|Runciman|1989|p=358}}。コンスタンスは息子が成年に達した直後の1163年頃に死去した{{sfn|Runciman|1989|p=365}}。コンスタンスの死によってルノーはアンティオキア公への権利を失うことになったが{{sfn|Hamilton|1978|p=98}}、ルノーにとって継娘にあたる[[マリー・ダンティオケ|マリー・ダンティオシュ]]が1161年にマヌエル1世と結婚し、実の娘の[[アニェス・ダンティオケ|アニェス・ダンティオシュ]]が[[ハンガリー王]][[ベーラ3世 (ハンガリー王)|ベーラ3世]](在位:1172年 - 1196年)の妻となったことで、ルノーは高い重要性を持つ人物となった{{sfn|Hamilton|1978|p=98}}。

ザンギー朝のヌールッディーンは1174年に急死した。まだ未成年であった息子の[[アッサリフ・イスマイル・アルマリク|アル=マリク・アッ=サーリフ・イスマーイール]]が後継者となり、ヌールッディーンの[[マムルーク]](奴隷軍人)の{{仮リンク|グムシュテキーン|en|Gümüshtekin}}がアレッポで摂政となった。しかし、野心的な[[クルド人]]の軍事指導者である[[サラーフッディーン]]{{efn2|サラーフッディーンはもともとはヌールッディーンの家臣だった人物であり{{sfn|佐藤|2011|p=63}}、エルサレム王国の侵攻を受けた[[ファーティマ朝]]の要請に応じてヌールッディーンが派遣した遠征軍(指揮官はサラーフッディーンの叔父の[[シールクーフ]]が務めていた)に加わる形で1169年にエジプトに入っていた{{sfn|佐藤|2011|pp=74–77}}。その後、ファーティマ朝の[[ワズィール]](宰相)に就任したシールクーフの死を受けて同年に後任のワズィールとなり{{sfn|佐藤|2011|pp=79–81}}、1171年にはファーティマ朝自体を廃してエジプトで事実上独立した{{sfn|佐藤|2011|pp=96–97}}。1174年のヌールッディーンの急死はヌールッディーンがサラーフッディーンを討伐するための軍隊を編成していた最中のことであった{{sfn|佐藤|2011|p=114}}。}}の攻勢に対抗することができなかったグムシュテキーンは、ルノーの継子にあたるアンティオキア公ボエモン3世に支援を求めた。さらにグムシュテキーンはボエモン3世の要請に応じて1176年にジョスラン3世やその他のキリスト教徒の捕虜全員とともにルノーを釈放した{{sfn|Hamilton|2000|pp=82, 98, 103}}{{sfn|Runciman|1989|p=408}}。この時のルノーの身代金は120,000[[ディナール]]であり、この金額はルノーの威信を反映していた{{sfn|Hamilton|1978|p=98}}。バーバーと歴史家のバーナード・ハミルトンは、この身代金について、ほぼ間違いなくマヌエル1世が支払っていただろうと述べている{{sfn|Barber|2012|p=365}}{{sfn|Hamilton|2000|p=112}}。

ルノーは1176年9月1日以前にジョスラン3世とともにエルサレムに現れ{{sfn|Hamilton|2000|p=105}}、そこでジョスラン3世の妹である{{仮リンク|アニェス・ド・クールトネー|en|Agnes of Courtenay}}の親しい協力者となった{{sfn|Hamilton|1978|p=99}}。そのアニェスは[[ハンセン病]]を患っていた幼いエルサレム王[[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]](在位:1174年 - 1185年)の母であった{{sfn|Hamilton|1978|p=99}}{{sfn|Barber|2012|p=264}}。1165年頃以降[[コンスタンティノープル]]に住み、西方教会との諸問題に関するマヌエル1世の顧問を務めていた{{仮リンク|ウーゴ・エテリアーノ|en|Hugo Etherianus}}は、著作の『聖霊の行列について』の序文で、エムリー・ド・リモージュにこの著作の写本を届けるよう「ルノー公」に依頼したと述べている{{sfn|Hamilton|2000|p=111}}。ハミルトンはこの記述について、エジプトに対するエルサレム王国とビザンツ帝国の同盟を確認するために1176年の終わり頃にボードゥアン4世がコンスタンティノープルに派遣した使節団をルノーが率いていたことを示唆するものだと指摘している{{sfn|Hamilton|2000|p=111}}{{sfn|Lock|2006|p=63}}。

== トランスヨルダン領主時代 ==
=== 初期の統治 ===
1177年の初頭にコンスタンティノープルから帰還したルノーは十字軍の{{仮リンク|トランスヨルダン (十字軍領)|label=トランスヨルダン領|en|Oultrejordain}}([[ヨルダン川]]東岸地域)の相続人であった{{仮リンク|ステファニー・ド・ミイィ|en|Stephanie of Milly}}と結婚し、ボードゥアン4世から[[ヘブロン]]も与えられた{{sfn|Hamilton|2000|p=117}}。ルノーを「ヘブロンおよびモンレアル領主」と称する現存する最初の証書は1177年11月に発給されている{{sfn|Hamilton|1978|p=100 (note 22)}}。ルノーは60人の騎士を王国政府に奉仕させており、これは王国で最も裕福な直臣の一人となっていたことを示している{{sfn|Hamilton|2000|p=117}}{{sfn|Baldwin|1969|p=593 (note 2)}}。さらに、ルノーはサラーフッディーンが支配する2つの主要な領土であるシリアとエジプトを結ぶ交通路を{{仮リンク|ケラク城|en|Kerak Castle}}と{{仮リンク|モンレアル城|en|Montreal (castle)}}から支配していた{{sfn|Barber|2012|p=268}}。ルノーとボードゥアン4世の義兄にあたる{{仮リンク|ギヨーム・ド・モンフェラート|en|William Longsword of Montferrat}}は連帯して{{仮リンク|モンテ・ガウディオ騎士団|en|Order of Mountjoy}}の創設者である{{仮リンク|ロドリゴ・アルバレス|en|Rodrigo Álvarez}}に広大な地所を与え、王国の南部と東部の辺境地帯の防衛を強化した{{sfn|Hamilton|2000|p=117}}。その後、1177年6月にギヨーム・ド・モンフェラートが死去すると、ボードゥアン4世はルノーを王国の摂政に任命した{{sfn|Hamilton|2000|p=118}}。
[[File:Seal Reynald of Chatillon 2.jpg|thumb|right|240px|猛禽と要塞の姿が描かれているルノーの印章]]
1177年8月初旬にボードゥアン4世の従兄にあたるフランドル伯[[フィリップ・ダルザス|フィリップ1世]]が十字軍を率いて聖地を訪れた{{sfn|Barber|2012|p=268}}。国王はフィリップ1世に摂政職を用意すると申し出たが、フィリップ1世は王国に留まりたくないと語り、この提案を拒否した{{sfn|Barber|2012|pp=268–269}}。その一方でフィリップ1世は誰からの命令でも「快く応じる」と明言したが、特別な権力を持たない軍司令官が軍隊を率いるべきだと考えていたため、ボードゥアン4世がルノーの「王国と軍隊の摂政」の地位を認めた際には抗議の意思を示した{{sfn|Hamilton|2000|p=123}}。結局、フィリップ1世は到着してから1か月後に王国を去った{{sfn|Hamilton|2000|p=133}}。

その後、サラーフッディーンがアスカロン地方に侵攻したが、1177年11月25日に起こった[[モンジザールの戦い]]で王国軍がサラーフッディーンの軍に攻撃を加え、これを打ち破ることに成功した{{sfn|Barber|2012|pp=270–271}}。ギヨーム・ド・ティールとエルヌールはこの勝利をボードゥアン4世の功績に帰しているが、{{仮リンク|バハーウッディーン・ブン・シャッダード|en|Baha ad-Din ibn Shaddad}}を始めとするイスラーム教徒の作家たちはルノーが軍隊の最高司令官であったと記録している{{sfn|Hamilton|1978|p=100 (note 24)}}。バハーウッディーンによれば{{sfn|Hamilton|1978|p=101 (note 25)}}、サラーフッディーン自身はこの戦いを「神が名高い[[ヒッティーンの戦い]]で修復した大敗北」と呼んだ{{sfn|Baha ad-Din b. Shaddad|2001|p=54}}。

ルノーは1177年から1180年にかけて国王証書の大半に署名しており、署名者の中でルノーの名前が常に筆頭に挙げられていることから、この期間はルノーが国王の下で最も影響力のある公職者であったことを示している{{sfn|Hamilton|1978|p=101 (note 26)}}。ルノーは王国内の多くの有力者が反対したにもかかわらず、1180年の初頭に国王の姉にあたる[[シビーユ (エルサレム女王)|シビーユ]]と結婚した[[ギー・ド・リュジニャン]]の重要な支持者の一人となった{{sfn|Barber|2012|p=275}}{{sfn|Hamilton|1978|p=101}}。1180年の秋に国王の異母妹の[[イザベル1世 (エルサレム女王)|イザベル]](イザベルの継父の{{仮リンク|バリアン・ディブラン|en|Balian of Ibelin}}はギー・ド・リュジニャンと敵対していた)はルノーの継子の[[オンフロワ4世・ド・トロン]]と婚約した{{sfn|Barber|2012|p=275}}。

ボードゥアン4世は1181年の初頭にボエモン3世と総大司教エムリーの和解を仲介するため、{{仮リンク|エルサレム総大司教|en|Latin Patriarchate of Jerusalem}}の{{仮リンク|ヘラクリウス (エルサレム総大司教)|label=エラクリウス|en|Heraclius of Jerusalem}}とともにルノーを派遣した{{sfn|Hamilton|1978|p=101 (note 27)}}{{sfn|Barber|2012|p=277}}。同じ年にキリシア・アルメニア王国の君主である{{仮リンク|ルーベン3世|en|Ruben III}}(在位:1175年 - 1187年)はルノーの継娘の{{仮リンク|イザベル・ド・トロン|en|Isabella of Toron}}と結婚した{{sfn|Hamilton|1978|p=101 (note 29)}}。

=== サラーフッディーンとの戦い ===
[[File:Karak Castle 2.jpg|thumb|right|260px|現代の[[ヨルダン]]の[[カラク (ヨルダン)|カラク]]に残る十字軍の{{仮リンク|トランスヨルダン (十字軍領)|label=トランスヨルダン領|en|Oultrejordain}}の主要な城塞であった{{仮リンク|ケラク城|en|Kerak Castle}}]]
ルノーは1180年代にサラーフッディーンと戦った唯一のキリスト教徒の指導者だった{{sfn|Barber|2012|p=276}}{{sfn|Hamilton|1978|p=102}}。同時代の年代記作家であるエルヌールは、ルノーが停戦の合意を破り、エジプトとシリアの間を行き来する[[キャラバン]]を2度にわたり襲撃したと記録している{{sfn|Hamilton|1978|p=103 (note 39)}}。現代の歴史家の間では、このような行動が戦利品に対する欲求から生まれたものなのか{{sfn|Runciman|1989|p=431}}、あるいはサラーフッディーンによる新たな領土の併合を阻止するための意図的な作戦行動だったのか、議論されている{{sfn|Hamilton|1978|p=102}}。ザンギー朝でヌールッディーンの跡を継いだアル=マリク・アッ=サーリフ・イスマーイールは1181年11月18日に死去した。サラーフッディーンはこの機会に乗じてアレッポを占領しようとしたが、この時ルノーはサラーフッディーンが支配する領土を急襲し、その襲撃は[[ダマスクス]]と[[メッカ]]を結ぶルート上に位置する[[タブーク]]にまで達した{{sfn|Hamilton|2000|pp=170–171}}。サラーフッディーンの甥にあたる{{仮リンク|ファッルフ・シャー|en|Farrukh Shah}}はルノーを[[アラビア砂漠]]から強制的に撤退させるため、アレッポを攻撃する代わりにトランスヨルダンに侵攻した{{sfn|Hamilton|2000|p=171}}。それから間もなくルノーはあるキャラバンを襲撃し、キャラバンの人々を投獄した{{sfn|Hamilton|2000|p=171}}。サラーフッディーンによる抗議を受けてボードゥアン4世はルノーが捕らえた者たちの釈放を命じたが、ルノーはこれを拒否した{{sfn|Hamilton|2000|pp=171–172}}。国王はルノーの反抗的な態度に頭を悩ませ、このような状況は[[トリポリ伯]][[レーモン3世 (トリポリ伯)|レーモン3世]](在位:1152年 - 1187年)の支持者たちによる国王とトリポリ伯の和解の実現を可能にした{{sfn|Hamilton|1978|p=103 (note 42)}}。ボードゥアン4世の近親者であったレーモン3世は1174年に摂政の地位に就いていたが、病に苦しんでいた国王に陰謀を企てたとされ、王国から追放されていた{{sfn|Lock|2006|pp=61, 66}}。レーモン3世が王宮に帰還したことでルノーの最高位の権力者としての立場は終わりを迎えたが、ルノーはこの新たな状況を受け入れ、1182年の夏に起こったサラーフッディーンとの戦いでは国王とレーモン3世に協力した{{sfn|Hamilton|1978|p=103}}。

サラーフッディーンはエジプトに海軍を復活させ、[[ベイルート]]を占領しようとしたが、最終的にサラーフッディーンの船団は撤退を余儀なくされた{{sfn|Barber|2012|p=278}}。その一方でルノーはトランスヨルダンで少なくとも5隻の船の建造を命じ、これらの船は1183年の1月か2月に[[ネゲブ砂漠]]を越えて[[紅海]]の北端に位置する[[アカバ湾]]に運ばれた{{sfn|Barber|2012|p=284}}{{sfn|Hamilton|2000|p=180}}{{sfn|Mallett|2008|p=142}}。ルノーはアイラ(現在の[[イスラエル]]の[[エイラート]])の砦を占領し、[[ファラオ島]]のエジプトの要塞を攻撃した。ルノーの艦隊の一部は海岸沿いでイスラーム教徒の[[ハッジ|巡礼者]]や物資を運ぶ船を略奪し、聖地であるメッカと[[マディーナ]]の安全を脅かした{{sfn|Barber|2012|p=284}}{{sfn|Mallett|2008|pp=142–143}}。その後ルノーは島を去ったものの、配下の艦隊は包囲を続けた{{sfn|Runciman|1989|p=437}}。サラーフッディーンの弟でエジプト総督の[[アル=アーディル]]は紅海に艦隊を派遣した。エジプト軍はファラオ島を解放し、キリスト教徒の艦隊を壊滅させた。その後、逃亡のためかマディーナを攻撃するために上陸した一部の兵士がマディーナの近郊で捕らえられた。ルノーの配下の者たちは処刑され、サラーフッディーンは決してルノーを許さないと誓った{{sfn|Runciman|1989|p=437}}{{sfn|Mallett|2008|p=143}}。ハミルトンはルノーによるこの海軍の遠征について、「驚くべき水準の構想を見せた」と述べているが、現代の歴史家の多くはこの遠征がサラーフッディーンの支配の下でシリアとエジプトが統一される要因の一つになったと認めている{{sfn|Hamilton|2000|p=181}}{{efn2|このルノーによる海軍の遠征を機に紅海で活動していたユダヤ教徒やキリスト教徒の商人は締め出され、[[カーリミー商人]]と呼ばれるイスラーム教徒の商人集団が紅海における貿易活動の主役を担うようになった{{sfn|佐藤|2011|pp=145–146}}。}}。そのサラーフッディーンは1183年6月にアレッポを占領し、十字軍国家に対する包囲網を完成させた{{sfn|Baldwin|1969|p=599}}。

病状が深刻化していたボードゥアン4世は1183年10月にギー・ド・リュジニャンを摂政に任じた{{sfn|Barber|2012|p=281}}。しかし、1か月も経たないうちにギーを解任し、ギーの5歳の継子である{{仮リンク|ボードゥアン5世 (エルサレム王)|label=ボードゥアン5世|en|Baldwin V of Jerusalem}}(在位:1183年 - 1186年)を共同の王位に就けた{{sfn|Barber|2012|p=282}}。同じ頃にルノーは継子のオンフロワ4世とボードゥアン4世の異母妹であるイザベルの結婚式のためにケラクに滞在していたため、ボードゥアン5世の戴冠式には出席しなかった{{sfn|Runciman|1989|p=440}}。しかしながら、この時サラーフッディーンが突如としてトランスヨルダンに侵攻し、現地の住民はケラクへの避難を余儀なくされた{{sfn|Runciman|1989|p=440}}。サラーフッディーンは町に侵入したが、家臣の一人が町と城を結ぶ橋の奪取を妨害したことでルノーは一人城塞へ逃げ込むことに成功した{{sfn|Runciman|1989|pp=440–441}}。その後、ケラクの城塞はサラーフッティーンによって{{仮リンク|ケラク包囲戦|label=包囲された|en|Siege of Kerak}}が、エルヌールはルノーの妻がサラーフッディーンに結婚式の料理を送り、息子夫婦が滞在する塔への砲撃を止めるように説得したと伝えている{{sfn|Runciman|1989|p=441}}。ケラクからの使者がボードゥアン4世にケラクの包囲を知らせると、国王とレーモン3世の指揮の下で王国軍がエルサレムからケラクに向かった{{sfn|Runciman|1989|p=441}}。これに対してサラーフッディーンは敵の援軍が到着する前の12月4日に包囲を放棄した{{sfn|Runciman|1989|p=441}}。その後、サラーフッディーンの命令によって、{{仮リンク|イッズッディーン・ウサーマ|en|Izz al-Din Usama}}がルノーの領地の北端に近い[[アジュルン|アジュルーン]]に{{仮リンク|アジュルーン城|label=ラバド城|en|Ajloun Castle}}を築いた{{sfn|Hamilton|2000|p=225}}。

=== シビーユとギーのエルサレム王への擁立 ===
[[File:Français 2629, fol. 300, Couronnement de Gui de Lusignan.jpeg|thumb|right|280px|[[シビーユ (エルサレム女王)|シビーユ]]の手による[[ギー・ド・リュジニャン]]の戴冠。ギーの妻であったシビーユはルノーの支持もありギーとともにエルサレム王となった。(ギヨーム・ド・ティールが著した『歴史』とその『続編』の15世紀後半の写本より)]]
ボードゥアン4世は1185年の初頭に死去し{{sfn|Barber|2012|p=284}}、後継者である幼少のボードゥアン5世も1186年の夏の終わりに死去した{{sfn|Barber|2012|p=289}}。以前に開かれた{{仮リンク|オート・クール|en|High Court of Jerusalem}}{{efn2|オート・クール(haute cour)(別用語で国王宮廷会議(curia regis)とも呼ばれる)は国王主催で封建家臣が参加するエルサレム王国の最高審議機関であったが、その他の審議機関としては、緊急時や非常事態への対応のために広く聖俗の有力者が参加する総会・全体会議(curia generalis/parlement)や諮問会議(consilium/conseil)などがあった{{sfn|櫻井|2020|pp=164–165,198–202,索引3–4}}。}}では、ボードゥアン5世の母であるシビーユ(ギー・ド・リュジニャンの妻)とその妹のイザベル(ルノーの継子であるオンフロワ4世の妻)のいずれも、[[ローマ教皇]]、[[神聖ローマ皇帝]]、[[フランス王]]、そして[[イングランド王]]による決定を経ることなくボードゥアン5世の合法的な後継者として戴冠することはできないとする裁定が下されていた{{sfn|Barber|2012|pp=289–290,293}}。しかし、シビーユの叔父であるエデッサ伯ジョスラン3世はルノーをはじめとする有力な王室関係者や高位聖職者の支持を得てエルサレムの支配権を掌握した{{sfn|Hamilton|2000|p=218}}{{sfn|Baldwin|1969|p=604}}。『エラクル年代記』によれば、ルノーは都市の人々にシビーユを合法的な君主として受け入れるように呼びかけた{{sfn|Hamilton|2000|p=220}}。その一方でトリポリ伯レーモン3世とその支持者たちはシビーユの戴冠を阻止しようとし、シビーユの支持者たちにオート・クールにおける裁定を思い起こさせようとした{{sfn|Barber|2012|p=294}}。ルノーとテンプル騎士団[[グランドマスター (騎士団)|総長]]の{{仮リンク|ジェラール・ド・リドフォール|en|Gerard of Ridefort}}は反対者たちの抗議を無視してシビーユとともに[[聖墳墓教会]]に向かい、そこでシビーユを戴冠させた{{sfn|Barber|2012|p=294}}。シビーユは夫の戴冠式の手筈も整えたが、夫のギーはシビーユの支持者たちの間ですら人気がなかった{{sfn|Barber|2012|pp=294–295}}{{sfn|Baldwin|1969|p=605}}。シビーユの反対派はルノーの継子であるオンフロワ4世・ド・トロンに対し妻のイザベルのために王位を要求するように説得を試みたものの、オンフロワ4世は反対派に与せず、シビーユとギーに忠誠を誓った{{sfn|Baldwin|1969|p=605}}{{sfn|Barber|2012|p=295}}。ルノーは1186年10月21日から1187年3月7日の間に発給された4つの国王証書における筆頭の世俗者の連署人となっており、ルノーが新しい国王の宮廷において最も重要性の高い人物になっていたことを示している{{sfn|Hamilton|1978|pp=107–108}}。

=== キャラバンの襲撃 ===
[[イブン・アル=アスィール]]を始めとするイスラーム教徒の歴史家は、ルノーが1186年にサラーフッディーンと単独で停戦協定を結んだと記している{{sfn|Hamilton|2000|p=225}}。エルサレム王国とサラーフッディーンの間ではこれとは別に停戦協定が結ばれていたが、ルノーの領地は法的には大規模な封土として王国内に含まれていたため、ハミルトンはルノーが単独で結んだとするこの停戦協定について、「恐らく事実ではないと思われる」と述べている{{sfn|Hamilton|2000|p=225}}。

1186年の末か1187年の初頭にエジプトからシリアに向かうある裕福な人々のキャラバンがトランスヨルダンを通過した{{sfn|Hamilton|2000|p=225}}。イブン・アル=アスィールはこのキャラバンについて武装した一団が同行していたと記している{{sfn|Hamilton|1978|p=107}}。ルノーはこのキャラバンを襲撃したが、ハミルトンによれば、この行動は恐らくルノーが兵士の存在を停戦協定の違反とみなしたためであった{{sfn|Hamilton|1978|pp=106–107}}{{sfn|Barber|2012|p=297}}。ルノーはすべての商人とその家族を捕虜にし、大量の物資を強奪しただけでなく、サラーフッディーンから派遣された賠償を求める使節との面会も拒否した{{sfn|Barber|2012|p=297}}{{sfn|Runciman|1989|p=450}}{{sfn|佐藤|2011|pp=178–179}}。サラーフッディーンは代わりにギー・ド・リュジニャンに使節を派遣し、ギーはサラーフッディーンの要求を受け入れた{{sfn|Barber|2012|p=297}}。しかし、ルノーは国王の指示に従うことを拒否した。『エラクル年代記』の記述によれば、この時ルノーは「ギーが自身の土地の領主であるのと同じように、自分も自身の土地の領主であり、自分は[[サラセン人]]とは停戦していない」と語った。バーバーによれば、このようなルノーの不服従は、ギーの統治下で王国が「半自律的な封土の集合体に分裂する寸前にあった」ことを示している{{sfn|Barber|2012|p=297}}。サラーフッディーンはエルサレム王国に対する[[ジハード]](聖戦)を宣言し、停戦を破ったルノーを自らの手で殺すと誓った{{sfn|Baldwin|1969|p=606}}。歴史家の{{仮リンク|ポール・M・コブ|en|Paul M. Cobb}}は、サラーフッディーンが「同志であるイスラーム教徒との戦争にあまりにも多くの時間を費やしていると批判する人々を黙らせるために、フランク人に対する勝利を強く必要としていた」と述べている{{sfn|Cobb|2016|p=185}}。

{{Quote box
| title = キャラバンに対するルノーの攻撃について
| quote = ケラクの領主ルノー公は、フランク人の中で最も重要かつ邪悪な人物の一人であり、イスラーム教徒に対して最も敵対的で、最も危険な人物であった。それを知っていたサラーフッディーンは、障害を伴いながらも何度も何度もルノーを標的にし、その領地を次から次へと襲撃した。その結果、ルノーは屈辱を味わい、誇りを傷つけられ、サラーフッディーンに停戦を願い出た。停戦は成立し、正式に誓いが立てられた。その後、キャラバンがシリアとエジプトを行き来するようになった。([[ヒジュラ暦]]582年に)かなりの数の兵士が同行し、豊富な物資を運んでいた大人数のキャラバンがルノーの近くを通りかかった。この忌まわしい者は信用を裏切って一人残らず捕らえ、キャラバンの物資、動物、そして武器を戦利品とした。そして捕らえた者たちを捕虜にし、牢獄に閉じ込めた。サラーフッディーンはルノーを非難し、その裏切り行為を嘆き、捕虜と物資を自由にしなければルノーを脅すと伝えたが、ルノーはそれに応えず、拒否を貫いた。サラーフッディーンは、もしルノーを自分の手許に置けるようなことがあれば、殺すと誓った。
| author = [[イブン・アル=アスィール]]
| source = 『[[完史]]』より{{sfn|Ibn al-Athir|2007|pp=316-317}}
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}}

== 敗北と処刑 ==
{{also|ヒッティーンの戦い}}
[[Image:BNF, Mss fr 68, folio 399.jpg|thumb|right|280px|[[ヒッティーンの戦い]]で捕らえられ、処刑されるルノー(ギヨーム・ド・ティールが著した『歴史』とその『続編』の15世紀後半の写本より)]]
『エラクル年代記』は、サラーフッディーンの妹もルノーがキャラバンを襲撃した際の捕虜に含まれていたという事実とは異なる主張をしている{{sfn|Hamilton|2000|p=225}}{{sfn|Runciman|1989|p=450}}。実際にはこの妹は1187年3月に別の巡礼のキャラバンでメッカからダマスクスに戻った{{sfn|Hamilton|2000|p=225}}。サラーフッディーンはルノーの攻撃から妹を守るため、キャラバンがトランスヨルダン付近を移動していた時に巡礼者たちを護衛した{{sfn|Runciman|1989|p=454}}。そして4月26日にトランスヨルダンを急襲し、ルノーの領地を1か月にわたって略奪した{{sfn|Hamilton|2000|p=227}}。その後、サラーフッディーンはダマスクスと[[ティベリア]]を結ぶ街道上に位置する{{仮リンク|テッル・アシュタラー|label=アシュタラー|en|Tell Ashtara}}まで進軍し、そこで自分の支配地の全域から軍隊を集結させた{{sfn|Hamilton|2000|p=229}}{{sfn|Barber|2012|p=299}}{{sfn|佐藤|2011|p=180}}。

キリスト教徒の軍隊は[[ナザレ]]の北に位置する{{仮リンク|サッフーリーヤ|en|Sepphoris}}に集結した{{sfn|Hamilton|2000|p=229}}{{sfn|Baldwin|1969|p=610}}{{sfn|太田|2011|p=53}}。トリポリ伯レーモン3世がサラーフッディーンの軍勢と直接戦うことを避けるようにギー・ド・リュジニャンへ説得を試みたものの、ルノーとジェラール・ド・リドフォールは議論で主導権を握り、サラーフッディーンを攻撃するようにギーを説き伏せた{{sfn|Hamilton|1978|p=107}}{{sfn|Barber|2012|p=300}}。この議論の最中にルノーは敵に協力しているとしてレーモン3世を非難した{{sfn|Barber|2012|p=301}}{{sfn|佐藤|2011|p=181}}。その後、十字軍はサラーフッディーンとの決戦のために[[ティベリアス]]に向かったが、7月の真夏の炎天下における行軍は十字軍に疲労と水の補給不足を招いた{{sfn|ジョティシュキー|2013|p=162}}。結局、7月4日に起こった[[ヒッティーンの戦い]]で十字軍はサラーフッディーンに壊滅的な敗北を喫し、キリスト教徒の軍の指揮官のほとんどが戦場で捕らえられる結果に終わった{{sfn|Barber|2012|p=304}}。

サラーフッディーンの前に引き出された捕虜の中にはギー・ド・リュジニャンとルノーも含まれていた{{sfn|Barber|2012|p=306}}{{sfn|佐藤|2011|p=182}}。サラーフッディーンは氷で冷やした[[バラ水]]が入った杯をギーに渡し、ギーはそれを飲むとルノーに杯を手渡した{{sfn|Runciman|1989|p=459}}{{sfn|佐藤|2011|pp=182–183}}。その場に同席していた[[イマードゥッディーン・アル=イスファハーニー]]は、ルノーがその杯の水を飲んだと記録している{{sfn|Barber|2012|p=306}}。慣習法では捕虜に食べ物か飲み物を与えた者はその捕虜を殺してはならないとされていたため、サラーフッディーンはルノーに杯を渡したのは自分ではなくギーであると指摘した{{sfn|Runciman|1989|p=459}}{{sfn|佐藤|2011|p=183}}。イマードゥッディーンとイブン・アル=アスィールは、サラーフッディーンが自分の天幕にルノーを呼び{{sfn|Barber|2012|p=306}}、山賊行為や冒涜的な言動を含む多くの罪を非難し、イスラームへの改宗か死かの選択を迫ったと伝えている{{sfn|Hamilton|1978|p=107}}{{sfn|Runciman|1989|p=459}}。ルノーがはっきりと改宗を拒否すると、サラーフッディーンは剣を取ってルノーを突き刺し{{sfn|Hamilton|1978|p=107}}{{sfn|Runciman|1989|p=459}}、ルノーが地面に倒れるとその首を刎ねた{{sfn|Hamilton|1978|p=107}}{{sfn|Cotts|2021|p=42}}。

サラーフッディーンがルノーに改宗の選択肢を与えたという記録の信頼性については、イスラーム教徒の作家たちがサラーフッディーンの印象を良くしたいためだけにこのような記録を残した可能性があるため、学問的には議論の対象となっている{{sfn|Mallett|2014|p=72 (note 49)}}。エルヌールの年代記と『エラクル年代記』はルノーが処刑されるまでの出来事をイスラーム教徒の作家たちとほぼ同じ言葉遣いで詳述している{{sfn|Runciman|1989|p=459}}。しかし、エルヌールの年代記ではルノーがギーから手渡された杯の水を飲むことを拒否したとされている{{sfn|Barber|2012|p=306}}{{sfn|Nicholson|1973|p=162}}。また、エルヌールはサラーフッディーンの兵士たちがルノーの首を切り落とし、その首は「ルノーが不当に扱ったサラセン人たちに復讐が果たされたことを示すために地面に引きずられながら」ダマスクスに運ばれていったと記録している{{sfn|Barber|2012|pp=306, 423}}{{sfn|Nicholson|1973|p=162}}。一方でバハーウッディーンは、ルノーの最期はギーに衝撃を与えたが、サラーフッディーンはすぐにギーを安心させ、「王は王を殺したりはしないものだが、あの男の背信と傲慢な言動はあまりにも行き過ぎていた」と語ったと伝えている{{sfn|Runciman|1989|p=460}}。

ヒッティーンの戦いの後、サラーフッディーンは速やかに軍を進め、1187年9月までに[[アッコ]]、[[カイサリア・マリティマ|カエサレア]]、[[ハイファ]]、{{仮リンク|アルスーフ|en|Apollonia–Arsuf}}、[[シドン]]、ベイルート、そして[[ビブロス]]を次々と占領した{{sfn|太田|2011|p=53}}{{sfn|ジョティシュキー|2013|p=193}}。そして1187年10月2日にはバリアン・ディブランが守るエルサレムを{{仮リンク|エルサレム包囲戦 (1187年)|label=占領する|en|Siege of Jerusalem (1187)}}ことに成功した{{sfn|ジョティシュキー|2013|p=193}}{{sfn|太田|2011|p=54}}。これらのヒッティーンの戦いから続いたエルサレム王国の危機的な状況は[[第3回十字軍]]が派遣されるきっかけとなった{{sfn|太田|2011|p=55}}。

== 家族 ==
ルノーの最初の妻であるコンスタンス・ダンティオシュ(1128年生まれ)はアンティオキア公ボエモン2世と{{仮リンク|アリックス・ダンティオシュ|en|Alice of Antioch}}の一人娘として生まれた{{sfn|Runciman|1989|p=183, Appendix III (Genealogical tree No. 2)}}。そして1130年に父の死を受けてアンティオキア公の後継者となり{{sfn|Runciman|1989|p=183}}、その6年後にレーモン・ド・ポワティエと結婚したが、レーモンは1149年に戦死した{{sfn|Runciman|1989|p=199}}。未亡人となったコンスタンスとルノーの結婚ついて、ハミルトンは「世紀の不釣り合いな結婚」と表現しているが{{sfn|Hamilton|2000|p=98}}、バックは「この結婚は西洋の年代記では言及されていない」点を強調している{{sfn|Buck|2017|p=78}}。さらに、バックはルノーが比較的低い身分の出自であったため、成年に達した際に統治権を強く主張する息子を持つ未亡人の公女の結婚相手としては、ルノーは「実際のところ理想的な候補者」であり、恐らく「いずれは身を引くことが期待されていた」と述べている{{sfn|Buck|2017|p=79}}。

ルノーとコンスタンスの娘であるアニェスはハンガリー王[[イシュトヴァーン3世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン3世]](在位:1162年 - 1172年)の弟で当時ビザンツ帝国に居住していたアレクシオス=ベーラと結婚するために1170年の初頭にコンスタンティノープルに移った{{sfn|Makk|1994|pp=47, 91}}。アニェスはコンスタンティノープルでアンナと改名し{{sfn|Makk|1994|p=47}}、夫は1172年に兄の後を継いでハンガリー王ベーラ3世となった{{sfn|Makk|1994|p=91}}。アニェスは夫の後を追ってハンガリーに向かい、1184年頃に死去するまでの間に7人の子供を儲けた{{sfn|Makk|1994|p=47}}。ルノーとコンスタンスの次女であるアリックスは1204年に[[エステ家]]の{{仮リンク|アッツォ6世デステ|label=アッツォ6世|en|Azzo VI d'Este}}の3番目の妻となった{{sfn|Chiappini|2001|p=31}}。ハミルトンとバックによれば、ルノーとコンスタンスの間には他にも息子の{{仮リンク|ボードゥアン・ダンティオシュ|label=ボードゥアン|en|Baldwin of Antioch}}が生まれたが、ランシマンはボードゥアンの父親をルノーではなくコンスタンスの前夫のレーモン・ド・ポワティエと説明している{{sfn|Buck|2017|p=83}}{{sfn|Hamilton|2000|pp=xviii, 40–41}}{{sfn|Runciman|1989|p=365, Appendix III (Genealogical tree No. 2)}}。そのボードゥアンは1160年代前半にコンスタンティノープルに移住し{{sfn|Runciman|1989|p=365}}、1176年9月17日に起こった[[ミュリオケファロンの戦い]]でビザンツ軍の騎兵連隊を率いて戦ったが、この戦いで戦死した{{sfn|Runciman|1989|p=413}}。

ルノーの2番目の妻であるステファニー・ド・ミイィの父は[[ナーブルス]]領主の{{仮リンク|フィリップ・ド・ミイィ|en|Philip of Milly}}、母はモンレアル領主の{{仮リンク|モーリス・ド・モンレアル|en|Maurice of Montreal}}の娘のイザベルである{{sfn|Runciman|1989|p=335 (note 1), Appendix III (Genealogical tree No. 4)}}。ステファニーは両者の下の娘として1145年頃に生まれた{{sfn|Hamilton|2000|p=90}}{{sfn|Runciman|1989|p=441 (note 1)}}。ステファニーの最初の夫である{{仮リンク|オンフロワ3世・ド・トロン|en|Humphrey III of Toron}}は1173年頃に死去した{{sfn|Hamilton|2000|p=92}}。ステファニーは1174年初頭に{{仮リンク|ミロン・ド・プランシー|en|Miles of Plancy}}と再婚したが{{sfn|Hamilton|2000|p=92}}、そのミロンは1174年10月にアッコで殺害された{{sfn|Hamilton|2000|p=90}}{{sfn|Baldwin|1969|p=592 (note 592)}}。

== 評価 ==
[[File:BOHADINUS, Yusuf ibn Raffi ibn Shaddad, known as (1145-1234). Vita et res gestae Sultani, almalichi alnasiri, Saladini. Edited and translated by Albert Schultens. Leiden; Samuel Luchtmans, 1732.jpg|thumb|right|280px|アラビア語とラテン語が併記されている1732年に出版されたバハーウッディーン・ブン・シャッダードによるサラーフッディーンの伝記。バハーウッディーンの著作にはルノーに関するいくつかの(主に否定的な)言及がある。]]
ルノーの生涯に関するほとんどの情報はルノーを敵視していたイスラーム教徒の作家たちによって記録されている{{sfn|Hamilton|1978|p=97}}。バハーウッディーン・ブン・シャッダードはサラーフッディーンの伝記の中で、「怪物のような異教徒であり、恐ろしい迫害者」であったと記している{{sfn|Baha ad-Din b. Shaddad|2001|p=37}}{{sfn|Barber|2012|pp=306, 423, 435}}。サラーフッディーンはルノーを570年にメッカの破壊を試み、[[クルアーン]]の[[象 (クルアーン)|アル=フィール]]の章([[スーラ (クルアーン)|スーラ]])で「象」と呼ばれている[[アクスム王国|エチオピア]]の王になぞらえた{{sfn|Hamilton|1978|p=97 (note 1)}}。イブン・アル=アスィールはルノーを「フランク人の中で最も非道な人物の一人であり、最も悪魔的な人物の一人」と評し、「イスラーム教徒に対し最も強い敵意を抱いていた」と説明している{{sfn|Mallett|2008|p=141}}。[[イスラーム過激派]]は現代においてもなおルノーを敵の象徴の1つとみなしている。2010年にある貨物機の中に紛れていた2つの[[郵便爆弾]]のうちの1つは明らかにルノーを指している「Reynald Krak」という宛名が書かれていた{{sfn|Cotts|2021|p=43}}。

12世紀から13世紀にかけてルノーについて言及しているほとんどのキリスト教徒の作家は、ルノーと政治的に対立していたギヨーム・ド・ティールによる影響を受けている{{sfn|Hamilton|1978|p=97}}。『エラクル年代記』は、1186年と1187年の変わり目にルノーがキャラバンを攻撃したことが「エルサレム王国の敗北の原因」になったと記している{{sfn|Hamilton|2000|p=225}}。ハミルトンによれば、現代の歴史家は大抵においてルノーを「イスラーム教徒の目標に対する以上にキリスト教徒に害をもたらす一匹狼」として扱ってきた{{sfn|Hamilton|1978|p=97}}。ランシマンはルノーについて、トランスヨルダンを通過する裕福なキャラバンを前にして誘惑に勝てなかった略奪者と述べ{{sfn|Runciman|1989|p=431}}、ルノーが1180年に合意されていた停戦の期間中にキャラバンを襲撃したのは「自分の意に反する政策を理解できなかった」からだと指摘している{{sfn|Runciman|1989|p=431}}。一方でコブはルノーを「サラーフッディーンにとって情け容赦のない強敵」と説明し、ルノーの挑発的な行動が必然的にエルサレム王国にとって致命的なものになったサラーフッディーンによる侵攻を招いたと指摘している{{sfn|Cobb|2016|pp=xx, 185}}。

キリスト教徒の作家の中にはルノーを信仰の殉教者と見なす者もいた{{sfn|Hamilton|1978|p=107}}。ギー・ド・リュジニャンの兄弟の{{仮リンク|ジョフロワ・ド・リュジニャン|en|Geoffrey of Lusignan}}からルノーの死を知らされた{{仮リンク|ピエール・ド・ブロワ|en|Peter of Blois}}は、その死から間もなくルノーに『アンティオキア公ルノーの受難』と題する本を捧げた。この受難記はルノーがヒッティーンで[[聖十字架|真の十字架]]を守っていたことを強調している{{sfn|Hamilton|1978|p=107}}。ハミルトンはルノーについて、十字軍国家の国境に沿って存在していたイスラーム諸国がサラーフッディーンの手によって統一されていく状況を何度かにわたり阻止しようとした「経験豊富で責任感のある十字軍の指導者」だったと評している{{sfn|Hamilton|1978|pp=102, 104–106}}。コブはこのハミルトンの説明について、ルノーに対する「紙上の悪評」を「払拭する試み」だと述べている{{sfn|Cobb|2016|p=306 (note 31)}}。また、ジョティシュキーは、ルノーのキャラバンへの襲撃に対するハミルトンの正当性の主張を引用しつつ、同時にこの停戦違反の行動はサラーフッディーンに侵略の口実を与える原因にもなったと指摘している{{sfn|ジョティシュキー|2013|p=161}}。一方で歴史家のアレックス・マレットは、ルノーによる海軍の遠征を「十字軍の歴史の中で最も驚くべき出来事の1つでありながら、未だに最も見過ごされている出来事の1つ」と呼んでいる{{sfn|Mallett|2008|p=141}}。

== 大衆文化 ==
[[リドリー・スコット]]が監督を務め、2005年に公開された映画『[[キングダム・オブ・ヘブン]]』において、ルノーはギー・ド・リュジニャンやテンプル騎士団とともに悪役の一人として登場する。[[ブレンダン・グリーソン]]が演じたルノーは、映画の中でイスラーム教徒を全面的に破滅させようと意図的にイスラーム教徒との対立を引き起こす好戦的で狂信的なキリスト教徒として描かれている{{sfn|Gabriele|2018|p=613}}{{sfn|Liu|2017|p=89}}。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 日本語文献 ===
* {{Citation |和書 |last=佐藤 |first=次高 |title=イスラームの「英雄」サラディン |series=講談社選書メチエ |publisher=[[講談社]] |date=1996年5月 |year=1996 |ref=harv}}
* {{Citation |和書 |author=アンドリュー・ジョティシュキー |title=十字軍の歴史 |translator=森田安一 |series=刀水歴史全書 |publisher=[[刀水書房]] |date=201312|year=2013 |ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=アンドリュー・ジョティシュキー|author-link=|translator=[[森田安一]]|title=十字軍の歴史|series=刀水歴史全書|publisher=[[刀水書房]]|date=2013-12-6|isbn=978-4-88708-388-2|ref={{SfnRef|ジョティシュキー|2013}}}}
* {{Citation |和書 |author=アミン・マアルーフ |title=アラブが見た十字軍 |translator=牟田口義郎、新雅子 |publisher=[[リブロポー]] |date=1986年4月 |year=1986 |ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=太田敬子|author-link=|title=十字軍と地中海世界|publisher=[[山出版社]]|series=世界史リブレット|date=2011-5-30|isbn=978-4-634-34945-2|ref={{SfnRef|太田|2011}}}}
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*{{cite book|和書|author=櫻井康人|author-link=|title=十字軍国家の研究 エルサレム王国の構造|series=|publisher=[[名古屋大学出版会]]|date=2020-6-30|isbn=978-4-8158-0991-1|ref={{SfnRef|櫻井|2020}}}}
*{{cite book|和書|author=佐藤次高|author-link=佐藤次高|title=イスラームの「英雄」サラディン ― 十字軍と戦った男|date=2011-11-10|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4-06-292083-4|ref={{SfnRef|佐藤|2011}}}}
*{{cite book|和書|author=根津由喜夫|author-link=根津由喜夫|title=ビザンツ ― 幻影の世界帝国|series=[[講談社選書メチエ]]|publisher=[[講談社]]|date=1999-4-10|isbn=4-06-258154-X|ref={{SfnRef|根津|1999}}}}


=== 外国語文献 ===
{{先代次代|[[アンティオキア公国|アンティオキア公]]|1153年 - 1160年|[[レーモン・ド・ポワティエ|レーモン]]と[[コンスタンス (アンティオキア女公)|コンスタンス]]|[[コンスタンス (アンティオキア女公)|コンスタンス]]}}
==== 一次資料 ====
{{History-stub}}
*{{cite book|last=Ibn al-Athir|first=|author-link=イブン・アル=アスィール|translation=Donald Sidney Richards|title=The Chronicle of Ibn al-Athir for the Crusading Period from'' Al-Kamil Fi'l-Ta'rikh ''(Part 2: The Years 541–582/1146–1193: The Age of Nur ad-Din and Saladin|publisher=[[:en:Ashgate Publishing|Ashgate]]|year=2007|isbn=978-0-7546-4078-3|url=https://www.google.com/search?hl=ja&tbo=p&tbm=bks&q=isbn:9780754640783|language=en|ref=harv}}
*{{cite book|last=Baha ad-Din b. Shaddad|first=|author-link=:en:Baha ad-Din ibn Shaddad|translation=Donald Sidney Richards|title=The Rare and Excellent History of Saladin or ''al-Nawādir al-Sultaniyya wa'l-Maḥāsin al-Yūsufiyya'' by Bahā' ad-Dīn Yusuf ibn Rafi ibn Shaddād|publisher=[[:en:Ashgate Publishing|Ashgate]]|year=2001|isbn=978-0-7546-0143-2|url=https://www.google.com/search?hl=ja&tbo=p&tbm=bks&q=isbn:9780754601432|language=en|ref=harv}}
==== 二次資料 ====
*{{cite book|last=Baldwin|first=Marshall W.|editor-last=Baldwin|editor-first=Marshall W.|title=The First Hundred Years|series=[[:en:Wisconsin Collaborative History of the Crusades|A History of the Crusades]]|volume=I|publisher=[[:en:The University of Wisconsin Press|The University of Wisconsin Press]]|orig-year=1955|year=1969|pages=528–561, 590–621|chapter=The Latin States under Baldwin III and Amalric I, 1143–1174; The Decline and Fall of Jerusalem, 1174–1189|isbn=978-0-2990-4834-1|url=https://www.google.com/search?hl=ja&tbo=p&tbm=bks&q=isbn:9780299048341|language=en|ref=harv}}
*{{cite book|last=Barber|first=Malcolm|author-link=:en:Malcolm Barber|year=2012|title=The Crusader States|publisher=[[:en:Yale University Press|Yale University Press]]|url=https://yalebooks.yale.edu/book/9780300208887/the-crusader-states/|isbn=978-0-3001-1312-9|language=en|ref=harv}}
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*{{cite journal|last=Mallett|first=Alex|title=A Trip down the Red Sea with Reynald of Châtillon|journal=[[:en:Journal of the Royal Asiatic Society|Journal of the Royal Asiatic Society]]|number=2|year=2008|volume=18|pages=141–153|publisher=[[Cambridge University Press]]|doi=10.1017/S1356186307008024|s2cid=162979332|issn=1356-1863|url=https://doi.org/10.1017/S1356186307008024|language=en|ref=harv}}
*{{cite book|last=Mallett|first=Alex|year=2014|title=Popular Muslim Reactions to the Franks in the Levant, 1097–1291|publisher=[[Routledge]]|url=https://www.routledge.com/Popular-Muslim-Reactions-to-the-Franks-in-the-Levant-/Mallett/p/book/9780367601034|isbn=978-1-3170-7798-5|language=en|ref=harv}}
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*{{cite book|last=Richard|first=Jean|author-link=:en:Jean Richard (historian)|year=1989|title=Media in Francia: Recueil de mélanges offert à Karl Ferdinand Werner à l'occasion de son 65e anniversaire par ses amis et collègues français|trans-title=|chapter=Aux origines d'un grand lignage: Des Palladii à Renaud de Châtillon|trans-chapter=|pages=409–418|publisher=Hérault-Éditions|isbn=978-2-9038-5157-6|url=https://www.google.com/search?hl=ja&tbo=p&tbm=bks&q=isbn:9782903851576|language=fr|ref=harv}}
*{{cite book|last=Runciman|first=Steven|author-link=スティーヴン・ランシマン|orig-year=1951|year=1989|title=A History of the Crusades: The Kingdom of Jerusalem and the Frankish East, 1100-1187|series=[[:en:A History of the Crusades|A History of the Crusades]]|volume=II|publisher=[[Cambridge University Press]]|isbn=978-0-5210-6163-6|url=https://www.google.com/search?hl=ja&tbo=p&tbm=bks&q=isbn:9780521061636|language=en|ref=harv}}
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2024年5月15日 (水) 13:55時点における版

ルノー・ド・シャティヨン
Renaud de Châtillon
アンティオキア公
ヘブロンおよびモンレアル領主
アンティオキア総大司教英語版エムリー・ド・リモージュ英語版を拷問するルノー・ド・シャティヨン(ギヨーム・ド・ティールが著した『歴史』とその『続編』の13世紀後半の写本より)
在位 アンティオキア公
1153年 - 1160/1年
トランスヨルダン領主英語版
1176年 - 1187年

出生 1124年頃
死去 1187年7月4日
ヒッティーン英語版
配偶者 コンスタンス・ダンティオシュ
  ステファニー・ド・ミイィ英語版
子女 アニェス・ダンティオシュ
アリックス
父親 エルヴェ2世・ド・ドンジー
母親 名前の不明なユーグ・ド・ブランの娘
宗教 カトリック
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ルノー・ド・シャティヨンフランス語: Renaud de Châtillon, 1124年頃 - 1187年7月4日)は、フランス貴族の息子として生まれ、1147年に第2回十字軍に参加したのちエルサレム王国に留まり、婚姻を通じて最初にアンティオキア公、次いでエルサレム王国の摂政トランスヨルダン英語版ヨルダン川東岸地域)の領主を務めた人物である。最後はルノーの停戦違反を口実にエルサレム王国へ侵攻したサラーフッディーン(サラディンの呼び名でも知られる)にヒッティーンの戦いで敗れ、捕虜となって処刑された。

1124年頃にドンジー英語版領主の息子として生まれたルノーは1147年にフランス王ルイ7世の軍に加わって第2回十字軍に参加し、2年後にフランス軍が撤退したのちもエルサレム王国に留まり、国王のボードゥアン3世の下でアスカロン包囲戦英語版に参加した。その後、アンティオキア公国の公女であるコンスタンスと結婚し、アンティオキア公の地位を手にした。アンティオキア公時代の1156年には当時ビザンツ帝国領であったキプロスを3週間にわたり略奪したが、後に皇帝マヌエル1世コムネノスに率いられたビザンツ軍による侵攻を招くことになり、最終的に屈辱的な条件による講和を強いられた。その後、1160年か1161年にユーフラテス川流域を襲撃した帰路にザンギー朝の将軍に捕らえられ、アレッポで監禁された。

ルノーの監禁生活は15年に及んだが、1176年に解放されると1177年にはエルサレム王国のトランスヨルダン領の相続人であったステファニー・ド・ミイィ英語版と結婚し、トランスヨルダンの領主となった。国王のボードゥアン4世からはヘブロンも与えられ、王国内で強い影響力を持つ人物となった。さらにイスラーム勢力への敵対姿勢を明確に打ち出し、1183年には海軍による紅海への遠征にも乗り出した。1185年と1186年にボードゥアン4世とその後継者のボードゥアン5世英語版が相次いで死去すると、テンプル騎士団などとともにボードゥアン4世の姉のシビーユとその夫のギー・ド・リュジニャンを支持し、反対派を押し切って両者を国王に推戴した。しかし、ルノーはエジプトシリアの一部を支配していたサラーフッディーンとエルサレム王国の間で結ばれていた停戦条約をたびたび破り、エジプトとシリアの間を往来するキャラバンを襲撃したことで、最終的にサラーフッディーンの怒りを買うことになった。そのサラーフッディーンは1187年にエルサレム王国に対する聖戦(ジハード)を宣言し、自身の支配地から軍隊を招集した。

これに対しルノーは国王のギーを説得してサラーフッディーンに決戦を挑んだものの、ヒッティーンの戦いで大敗を喫して捕虜となり、最後はサラーフッディーンから背信行為の数々を非難された末に処刑された。現代の歴史家の多くはルノーについて、イスラーム教徒に対する以上にキリスト教徒に害をもたらした無責任な人物とみなし、ルノーの戦利品への欲望がエルサレム王国に危機的な状況を招いたと考えている。しかし、バーナード・ハミルトンのような一部の歴史家は、サラーフッディーンの手によって近隣のイスラーム諸国が統一されていく状況を阻止しようとした唯一の十字軍指導者だったとしてルノーの肯定的な面を評価している。

出自と初期の経歴

ルノーはフランスドンジー英語版領主エルヴェ2世の下の息子として生まれた[1][2]。古い歴史書ではルノーはジアン伯ジョフロワの息子とされているが[3]、現代の歴史家であるジャン・リシャール英語版はルノーとドンジー領主の間の血縁関係の存在を論証した[注 1]。ドンジー領主の一族はブルゴーニュ公国(現在のフランス西部)の有力貴族であり、後期ローマ帝国時代の著名なガロ・ローマ系貴族の一門であったパッラディーの子孫だと主張していた[1][5]。ルノーの母親はラ・フェルテ=ミロン英語版の領主であったユーグ・ド・ブランの名前の不明な娘である[6]

1124年頃に生まれたルノーはシャティヨン=シュル=ロワール英語版の領主の地位を相続した[1][7]。その数年後にルノーはフランス王ルイ7世(在位:1137年 - 1180年)に宛てた手紙の中で、自分の世襲財産の一部が「暴力的かつ不当に没収された」として不満を漏らしている。歴史家のマルコム・バーバー英語版は、恐らくこの出来事がルノーに祖国を離れ十字軍国家へ向かわせるきっかけになったのだろうと述べている[8][注 2]。そのルノーは1147年の第2回十字軍の遠征の際にルイ7世の軍に加わってエルサレム王国に向かい、2年後にフランス軍が遠征を断念した時に現地に留まることを選択した[8][10]。その後は1153年の初頭にエルサレム王ボードゥアン3世(在位:1143年 - 1163年)の軍に加わり、アスカロン包囲戦英語版で戦ったことが知られている[11]

予想外なことに、ルノーはそのアスカロンの包囲戦が終わる前にアンティオキア公女のコンスタンスと婚約した。ルノーとは政治的に対立関係にあった12世紀の歴史家のギヨーム・ド・ティールは、ルノーを「一種の雇われ騎士のようなもの」と評し、婚約当時のルノーとコンスタンスの間には距離的な隔たりがあったことを強調している[8][11]。そのコンスタンスはアンティオキア公ボエモン2世(在位:1111年または1119年 - 1130年)の跡を継いだ一人娘だったが、1148年6月28日に起こったイナブの戦いで夫のレーモン・ド・ポワティエが戦死し、未亡人となっていた[12][13]。ボードゥアン3世(コンスタンスの従兄弟にあたる)はアンティオキアの防衛を確実なものにするため、レーモンの死後の数年間に少なくとも3回にわたり軍隊を率いてアンティオキアに赴いた。そしてコンスタンスに対し再婚するように説得を試みたものの、コンスタンスはボードゥアン3世が示した候補者たちを受け入れなかった。さらに、コンスタンスはビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノス(在位:1143年 - 1180年)がコンスタンスの夫候補として持ち掛けたヨハネス・ロゲリオス・ダラッセノス英語版も拒否していた[14][15]。ルノーとコンスタンスはボードゥアン3世が結婚を許可するまでこの婚約を秘密にしていた[3][8]。歴史家のアンドリュー・D・バックは、ルノーがボードゥアン3世に仕えていたことから、国王の許可が必要であったと指摘している[16]。『エラクル年代記英語版』の名で知られる13世紀前半に著された年代記は、ボードゥアン3世がこの結婚を快く認めた理由について、自分の王国から「非常に離れた土地(すなわちアンティオキア)を防衛する」義務から解放されたからだと記している[17]

アンティオキア公時代

1165年頃の十字軍国家とその周辺地域を示した地図(アンティオキア公国は中央上部の青色部分)

ボードゥアン3世の同意を得たコンスタンスはルノーと結婚した[3][8][18]。ルノーは1153年5月かその少し前にアンティオキア公となり[19]、同じ月にヴェネツィア商人の特権を追認した[20]。ギヨーム・ド・ティールは、臣下たちが「著名で、影響力があり、良家の出の」公女が身分の低い男と結婚したことに驚いたと記録している[11]。しかし、歴史家のアンドリュー・ジョティシュキーは、ルノーについて、西方の良家の出身であり、国に危険をもたらすような取り巻きもなく軍事経験もあったため、政治的には好ましい人物だったと述べている[21]。また、ルノーのものと認識できる硬貨は現存しておらず、バックによれば、このことはルノーの立場が比較的弱かったことを示している。レーモン・ド・ポワティエが発給した証書のおよそ半分がコンスタンスに言及することなく発給されていたのに対し、ルノーの証書の場合は常に妻の同意を経て決定を下したと記されている[22]。その一方でルノーはジョフロワ・ジョルダニスをコネタブル(軍務長官)に、ジョフロワ・ファルサールをアンティオキアのドゥクスに任じるなど、最上級の官職の任命権は掌握していた[23][注 3]

ノルマン人の年代記作家のロベール・ド・トリニ英語版は、ルノーがアンティオキア公となってすぐにアレッポ人から3つの要塞を奪ったと記録しているが、これらの要塞の名前については言及していない[25]。また、アンティオキアの裕福な総大司教であったエムリー・ド・リモージュ英語版はコンスタンスの再婚に不快感を隠さなかった。バーバーが強調しているように、ルノーは「ひどく金に困っていた」にもかかわらず、エムリーはルノーへ支援金を支払うことを拒否していた。1154年の夏にルノーはエムリーを拘束して拷問し、裸にさせて体に蜂蜜を塗ったまま太陽の下に座らせ、その後投獄した。エムリーはボードゥアン3世の要求によってようやく釈放されたが、すぐにアンティオキアからエルサレムへ逃亡した[18][26][27]。意外なことに、高位の聖職者を虐待したにもかかわらず、この時ルノーは破門されなかった。バックはエムリーが以前ティールの大司教の地位をめぐって教皇庁と対立していたため、ルノーは処罰を免れたのだと論じている。しかし、アンティオキアとジェノヴァの間で対立が起きた結果、エムリーは教皇庁の要求に応じて同年のうちにルノーを破門した[28]

アンティオキアに対する宗主権を主張していたビザンツ皇帝マヌエル1世は使節をルノーに派遣し[注 4]ビザンツ帝国による支配に反旗を翻したキリキアアルメニア人に対する軍事行動を開始するならばルノーを新しいアンティオキア公として承認すると提案した[注 5]。さらに、軍事行動にかかる費用をルノーに補償することも約束した[18]。ルノーは1155年にアレクサンドレッタでアルメニア人を破ったが、その後、アルメニア人がこの衝突から少し前の時期に侵略していたシリア門(現代のベレン峠英語版)の一帯をテンプル騎士団が支配するようになった[32]。はっきりとした史料の裏付けはないものの、バーバーと歴史家のスティーヴン・ランシマンは、ルノーがこの地域の領地をテンプル騎士団に与えたする見解を示している[27][32]

常に資金を必要としていたルノーはマヌエル1世に対し約束していた補償金を送るように促したが、マヌエル1世はその支払いを怠った[27]。結局、ルノーはキリキア・アルメニア王国の君主であるトロス2世英語版(在位:1144/5年 - 1169年)と同盟を結んだ。両者は1156年の初頭にキプロスを攻撃し、繁栄していたビザンツ帝国の島を3週間にわたり略奪した[33][34][注 6]。その後、ビザンツ帝国の艦隊がキプロスに接近しているという噂を聞きつけると両者はキプロスから去ったが、その際にマヌエル1世の甥にあたるヨハネス・ドゥーカス・コムネノス英語版を含む特に裕福な複数の人物を捕虜としてアンティオキアに連行し、残りの全てのキプロス人に対し身代金の支払いを強要した[33][36]

ボードゥアン3世はフランドル伯ティエリー・ダルザスとその軍隊が聖地(パレスチナ)に駐留していたことと、シリア北部のほとんどの都市が地震によって破壊された状況を利用し、1157年の秋にオロンテス川流域のイスラーム教徒の支配地に侵攻した[37]。ルノーはボードゥアン3世の軍隊に加わり、シャイザル英語版を包囲した[36][37]。この時点でのシャイザルはシーア派の流れを汲む暗殺教団の支配下に置かれていたが、地震が起こる以前はルノーに毎年貢納金を支払っていたスンナ派ムンキズ族英語版の本拠地であった[37]。ボードゥアン3世はティエリーにシャイザルの要塞を与えるつもりだったが、ルノーはこの町と引き換えにティエリーが自分に対し臣従礼を取るように要求した。しかし、ティエリーは成り上がり者への忠誠の宣言を拒絶し、最終的に十字軍は町の包囲を断念した[38]。その後、十字軍はハーリム英語版に進軍した。そのハーリムは1150年にザンギー朝の君主であるヌールッディーンが攻略するまではアンティオキア人の要塞であった[39]。1158年2月に十字軍がハーリムを占領すると、ルノーはフランドル出身の騎士であるルノー・ド・サン=ヴァレリードイツ語版にハーリムを与えた[38][40]

ルノーとトロス2世によるキプロスへの襲撃に対する報復として、1158年12月にマヌエル1世が突然キリキアに侵攻し、攻撃を受けたトロス2世は山中への避難を余儀なくされた[41][42]。本格的なビザンツ軍の侵攻を前にして抵抗できなかったルノーは皇帝に対し自ら進んで服従の意志を示すためにマミストラ英語版へ急行した[35][40][41]。ルノーとその家臣たちはマヌエル1世の要求に応じて頭に何も冠ることなく素足のまま町中を歩き、皇帝の天幕まで行くとそこでひれ伏して慈悲を求めた[43][44]。ルノーが屈辱を強いられた場には近隣のイスラーム教徒やキリスト教徒の支配者たちから派遣された使者も同席していたため、ギヨーム・ド・ティールはこの出来事について、「ラテン世界の栄光は恥辱に転じた」と述べている[45][46]。マヌエル1世はアンティオキアにギリシア正教総主教を置くように要求した。この要求はすぐには受け入れられなかったが、その一方で当時ラタキアのカトリックの司教であったジェラールがエルサレムへの転出を余儀なくされたとする文書の証拠が残っている[47]。ルノーは必要な時にはいつでもビザンツ軍の守備隊が城塞に駐留することを認め、ビザンツ軍とともに戦う部隊を派遣することを誓約させられた[43]。それから間もなくエルサレム王のボードゥアン3世もマヌエル1世の下を訪れ[注 7]、アンティオキアに総主教を置くことを認める代わりに総大司教のエムリーをアンティオキアへ戻すことにも同意するようにマヌエル1世を説得し、これを認めさせた[42][50]。マヌエル1世は1159年4月12日に非常に壮麗な儀式を伴いながらアンティオキアに入城したが、この時ルノーはマヌエル1世の馬の馬具を手に取りながら徒歩で行進していた[42][50][51]。マヌエル1世はしばらくアンティオキアに滞在し、8日後に町を離れた[51][52]

ルノーは1160年11月か1161年に略奪のためにユーフラテス川流域で奇襲を仕掛け、マラシュでは現地の農民から牛や馬、さらにはラクダを奪った[53][54][55]。ヌールッディーンのアレッポの軍司令官であったマジュドゥッディーンは兵を集め(同時代の歴史家であるエデッサのマタイオスによれば1万人)、アンティオキアへ戻る途中のルノーとその従者を攻撃した[53][56]。ルノーは戦おうとしたが、馬から落とされて捕えられた。そしてアレッポに送られ、そこで投獄された[54]

捕囚時代

アレッポで投獄されるルノーの様子が描かれているギヨーム・ド・ティールが著した『歴史』とその『続編』の14世紀中頃の写本

ルノーが投獄された期間は15年に及んだが、その間の生活がどのようなものであったのかはほとんど知られていない[45]。ルノーは自分と同様に数か月前に捕らえられていたエデッサ伯ジョスラン3世英語版と同じ牢獄で過ごした[57][注 8]。ルノーが不在の間、コンスタンスは単独統治を望んだが、ボードゥアン3世はコンスタンスの15歳の継子であるボエモン3世英語版を支持し、総大司教のエムリーを摂政に付けた[53][57]。コンスタンスは息子が成年に達した直後の1163年頃に死去した[59]。コンスタンスの死によってルノーはアンティオキア公への権利を失うことになったが[45]、ルノーにとって継娘にあたるマリー・ダンティオシュが1161年にマヌエル1世と結婚し、実の娘のアニェス・ダンティオシュハンガリー王ベーラ3世(在位:1172年 - 1196年)の妻となったことで、ルノーは高い重要性を持つ人物となった[45]

ザンギー朝のヌールッディーンは1174年に急死した。まだ未成年であった息子のアル=マリク・アッ=サーリフ・イスマーイールが後継者となり、ヌールッディーンのマムルーク(奴隷軍人)のグムシュテキーン英語版がアレッポで摂政となった。しかし、野心的なクルド人の軍事指導者であるサラーフッディーン[注 9]の攻勢に対抗することができなかったグムシュテキーンは、ルノーの継子にあたるアンティオキア公ボエモン3世に支援を求めた。さらにグムシュテキーンはボエモン3世の要請に応じて1176年にジョスラン3世やその他のキリスト教徒の捕虜全員とともにルノーを釈放した[65][66]。この時のルノーの身代金は120,000ディナールであり、この金額はルノーの威信を反映していた[45]。バーバーと歴史家のバーナード・ハミルトンは、この身代金について、ほぼ間違いなくマヌエル1世が支払っていただろうと述べている[67][68]

ルノーは1176年9月1日以前にジョスラン3世とともにエルサレムに現れ[69]、そこでジョスラン3世の妹であるアニェス・ド・クールトネー英語版の親しい協力者となった[70]。そのアニェスはハンセン病を患っていた幼いエルサレム王ボードゥアン4世(在位:1174年 - 1185年)の母であった[70][71]。1165年頃以降コンスタンティノープルに住み、西方教会との諸問題に関するマヌエル1世の顧問を務めていたウーゴ・エテリアーノ英語版は、著作の『聖霊の行列について』の序文で、エムリー・ド・リモージュにこの著作の写本を届けるよう「ルノー公」に依頼したと述べている[72]。ハミルトンはこの記述について、エジプトに対するエルサレム王国とビザンツ帝国の同盟を確認するために1176年の終わり頃にボードゥアン4世がコンスタンティノープルに派遣した使節団をルノーが率いていたことを示唆するものだと指摘している[72][73]

トランスヨルダン領主時代

初期の統治

1177年の初頭にコンスタンティノープルから帰還したルノーは十字軍のトランスヨルダン領英語版ヨルダン川東岸地域)の相続人であったステファニー・ド・ミイィ英語版と結婚し、ボードゥアン4世からヘブロンも与えられた[74]。ルノーを「ヘブロンおよびモンレアル領主」と称する現存する最初の証書は1177年11月に発給されている[75]。ルノーは60人の騎士を王国政府に奉仕させており、これは王国で最も裕福な直臣の一人となっていたことを示している[74][76]。さらに、ルノーはサラーフッディーンが支配する2つの主要な領土であるシリアとエジプトを結ぶ交通路をケラク城英語版モンレアル城英語版から支配していた[77]。ルノーとボードゥアン4世の義兄にあたるギヨーム・ド・モンフェラート英語版は連帯してモンテ・ガウディオ騎士団英語版の創設者であるロドリゴ・アルバレス英語版に広大な地所を与え、王国の南部と東部の辺境地帯の防衛を強化した[74]。その後、1177年6月にギヨーム・ド・モンフェラートが死去すると、ボードゥアン4世はルノーを王国の摂政に任命した[78]

猛禽と要塞の姿が描かれているルノーの印章

1177年8月初旬にボードゥアン4世の従兄にあたるフランドル伯フィリップ1世が十字軍を率いて聖地を訪れた[77]。国王はフィリップ1世に摂政職を用意すると申し出たが、フィリップ1世は王国に留まりたくないと語り、この提案を拒否した[79]。その一方でフィリップ1世は誰からの命令でも「快く応じる」と明言したが、特別な権力を持たない軍司令官が軍隊を率いるべきだと考えていたため、ボードゥアン4世がルノーの「王国と軍隊の摂政」の地位を認めた際には抗議の意思を示した[80]。結局、フィリップ1世は到着してから1か月後に王国を去った[81]

その後、サラーフッディーンがアスカロン地方に侵攻したが、1177年11月25日に起こったモンジザールの戦いで王国軍がサラーフッディーンの軍に攻撃を加え、これを打ち破ることに成功した[82]。ギヨーム・ド・ティールとエルヌールはこの勝利をボードゥアン4世の功績に帰しているが、バハーウッディーン・ブン・シャッダード英語版を始めとするイスラーム教徒の作家たちはルノーが軍隊の最高司令官であったと記録している[83]。バハーウッディーンによれば[84]、サラーフッディーン自身はこの戦いを「神が名高いヒッティーンの戦いで修復した大敗北」と呼んだ[85]

ルノーは1177年から1180年にかけて国王証書の大半に署名しており、署名者の中でルノーの名前が常に筆頭に挙げられていることから、この期間はルノーが国王の下で最も影響力のある公職者であったことを示している[86]。ルノーは王国内の多くの有力者が反対したにもかかわらず、1180年の初頭に国王の姉にあたるシビーユと結婚したギー・ド・リュジニャンの重要な支持者の一人となった[87][88]。1180年の秋に国王の異母妹のイザベル(イザベルの継父のバリアン・ディブラン英語版はギー・ド・リュジニャンと敵対していた)はルノーの継子のオンフロワ4世・ド・トロンと婚約した[87]

ボードゥアン4世は1181年の初頭にボエモン3世と総大司教エムリーの和解を仲介するため、エルサレム総大司教英語版エラクリウス英語版とともにルノーを派遣した[89][90]。同じ年にキリシア・アルメニア王国の君主であるルーベン3世英語版(在位:1175年 - 1187年)はルノーの継娘のイザベル・ド・トロン英語版と結婚した[91]

サラーフッディーンとの戦い

現代のヨルダンカラクに残る十字軍のトランスヨルダン領英語版の主要な城塞であったケラク城英語版

ルノーは1180年代にサラーフッディーンと戦った唯一のキリスト教徒の指導者だった[92][93]。同時代の年代記作家であるエルヌールは、ルノーが停戦の合意を破り、エジプトとシリアの間を行き来するキャラバンを2度にわたり襲撃したと記録している[94]。現代の歴史家の間では、このような行動が戦利品に対する欲求から生まれたものなのか[95]、あるいはサラーフッディーンによる新たな領土の併合を阻止するための意図的な作戦行動だったのか、議論されている[93]。ザンギー朝でヌールッディーンの跡を継いだアル=マリク・アッ=サーリフ・イスマーイールは1181年11月18日に死去した。サラーフッディーンはこの機会に乗じてアレッポを占領しようとしたが、この時ルノーはサラーフッディーンが支配する領土を急襲し、その襲撃はダマスクスメッカを結ぶルート上に位置するタブークにまで達した[96]。サラーフッディーンの甥にあたるファッルフ・シャー英語版はルノーをアラビア砂漠から強制的に撤退させるため、アレッポを攻撃する代わりにトランスヨルダンに侵攻した[97]。それから間もなくルノーはあるキャラバンを襲撃し、キャラバンの人々を投獄した[97]。サラーフッディーンによる抗議を受けてボードゥアン4世はルノーが捕らえた者たちの釈放を命じたが、ルノーはこれを拒否した[98]。国王はルノーの反抗的な態度に頭を悩ませ、このような状況はトリポリ伯レーモン3世(在位:1152年 - 1187年)の支持者たちによる国王とトリポリ伯の和解の実現を可能にした[99]。ボードゥアン4世の近親者であったレーモン3世は1174年に摂政の地位に就いていたが、病に苦しんでいた国王に陰謀を企てたとされ、王国から追放されていた[100]。レーモン3世が王宮に帰還したことでルノーの最高位の権力者としての立場は終わりを迎えたが、ルノーはこの新たな状況を受け入れ、1182年の夏に起こったサラーフッディーンとの戦いでは国王とレーモン3世に協力した[101]

サラーフッディーンはエジプトに海軍を復活させ、ベイルートを占領しようとしたが、最終的にサラーフッディーンの船団は撤退を余儀なくされた[102]。その一方でルノーはトランスヨルダンで少なくとも5隻の船の建造を命じ、これらの船は1183年の1月か2月にネゲブ砂漠を越えて紅海の北端に位置するアカバ湾に運ばれた[103][104][105]。ルノーはアイラ(現在のイスラエルエイラート)の砦を占領し、ファラオ島のエジプトの要塞を攻撃した。ルノーの艦隊の一部は海岸沿いでイスラーム教徒の巡礼者や物資を運ぶ船を略奪し、聖地であるメッカとマディーナの安全を脅かした[103][106]。その後ルノーは島を去ったものの、配下の艦隊は包囲を続けた[107]。サラーフッディーンの弟でエジプト総督のアル=アーディルは紅海に艦隊を派遣した。エジプト軍はファラオ島を解放し、キリスト教徒の艦隊を壊滅させた。その後、逃亡のためかマディーナを攻撃するために上陸した一部の兵士がマディーナの近郊で捕らえられた。ルノーの配下の者たちは処刑され、サラーフッディーンは決してルノーを許さないと誓った[107][108]。ハミルトンはルノーによるこの海軍の遠征について、「驚くべき水準の構想を見せた」と述べているが、現代の歴史家の多くはこの遠征がサラーフッディーンの支配の下でシリアとエジプトが統一される要因の一つになったと認めている[109][注 10]。そのサラーフッディーンは1183年6月にアレッポを占領し、十字軍国家に対する包囲網を完成させた[111]

病状が深刻化していたボードゥアン4世は1183年10月にギー・ド・リュジニャンを摂政に任じた[112]。しかし、1か月も経たないうちにギーを解任し、ギーの5歳の継子であるボードゥアン5世英語版(在位:1183年 - 1186年)を共同の王位に就けた[113]。同じ頃にルノーは継子のオンフロワ4世とボードゥアン4世の異母妹であるイザベルの結婚式のためにケラクに滞在していたため、ボードゥアン5世の戴冠式には出席しなかった[114]。しかしながら、この時サラーフッディーンが突如としてトランスヨルダンに侵攻し、現地の住民はケラクへの避難を余儀なくされた[114]。サラーフッディーンは町に侵入したが、家臣の一人が町と城を結ぶ橋の奪取を妨害したことでルノーは一人城塞へ逃げ込むことに成功した[115]。その後、ケラクの城塞はサラーフッティーンによって包囲された英語版が、エルヌールはルノーの妻がサラーフッディーンに結婚式の料理を送り、息子夫婦が滞在する塔への砲撃を止めるように説得したと伝えている[116]。ケラクからの使者がボードゥアン4世にケラクの包囲を知らせると、国王とレーモン3世の指揮の下で王国軍がエルサレムからケラクに向かった[116]。これに対してサラーフッディーンは敵の援軍が到着する前の12月4日に包囲を放棄した[116]。その後、サラーフッディーンの命令によって、イッズッディーン・ウサーマ英語版がルノーの領地の北端に近いアジュルーンラバド城英語版を築いた[117]

シビーユとギーのエルサレム王への擁立

シビーユの手によるギー・ド・リュジニャンの戴冠。ギーの妻であったシビーユはルノーの支持もありギーとともにエルサレム王となった。(ギヨーム・ド・ティールが著した『歴史』とその『続編』の15世紀後半の写本より)

ボードゥアン4世は1185年の初頭に死去し[103]、後継者である幼少のボードゥアン5世も1186年の夏の終わりに死去した[118]。以前に開かれたオート・クール英語版[注 11]では、ボードゥアン5世の母であるシビーユ(ギー・ド・リュジニャンの妻)とその妹のイザベル(ルノーの継子であるオンフロワ4世の妻)のいずれも、ローマ教皇神聖ローマ皇帝フランス王、そしてイングランド王による決定を経ることなくボードゥアン5世の合法的な後継者として戴冠することはできないとする裁定が下されていた[120]。しかし、シビーユの叔父であるエデッサ伯ジョスラン3世はルノーをはじめとする有力な王室関係者や高位聖職者の支持を得てエルサレムの支配権を掌握した[121][122]。『エラクル年代記』によれば、ルノーは都市の人々にシビーユを合法的な君主として受け入れるように呼びかけた[123]。その一方でトリポリ伯レーモン3世とその支持者たちはシビーユの戴冠を阻止しようとし、シビーユの支持者たちにオート・クールにおける裁定を思い起こさせようとした[124]。ルノーとテンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォール英語版は反対者たちの抗議を無視してシビーユとともに聖墳墓教会に向かい、そこでシビーユを戴冠させた[124]。シビーユは夫の戴冠式の手筈も整えたが、夫のギーはシビーユの支持者たちの間ですら人気がなかった[125][126]。シビーユの反対派はルノーの継子であるオンフロワ4世・ド・トロンに対し妻のイザベルのために王位を要求するように説得を試みたものの、オンフロワ4世は反対派に与せず、シビーユとギーに忠誠を誓った[126][127]。ルノーは1186年10月21日から1187年3月7日の間に発給された4つの国王証書における筆頭の世俗者の連署人となっており、ルノーが新しい国王の宮廷において最も重要性の高い人物になっていたことを示している[128]

キャラバンの襲撃

イブン・アル=アスィールを始めとするイスラーム教徒の歴史家は、ルノーが1186年にサラーフッディーンと単独で停戦協定を結んだと記している[117]。エルサレム王国とサラーフッディーンの間ではこれとは別に停戦協定が結ばれていたが、ルノーの領地は法的には大規模な封土として王国内に含まれていたため、ハミルトンはルノーが単独で結んだとするこの停戦協定について、「恐らく事実ではないと思われる」と述べている[117]

1186年の末か1187年の初頭にエジプトからシリアに向かうある裕福な人々のキャラバンがトランスヨルダンを通過した[117]。イブン・アル=アスィールはこのキャラバンについて武装した一団が同行していたと記している[129]。ルノーはこのキャラバンを襲撃したが、ハミルトンによれば、この行動は恐らくルノーが兵士の存在を停戦協定の違反とみなしたためであった[130][131]。ルノーはすべての商人とその家族を捕虜にし、大量の物資を強奪しただけでなく、サラーフッディーンから派遣された賠償を求める使節との面会も拒否した[131][132][133]。サラーフッディーンは代わりにギー・ド・リュジニャンに使節を派遣し、ギーはサラーフッディーンの要求を受け入れた[131]。しかし、ルノーは国王の指示に従うことを拒否した。『エラクル年代記』の記述によれば、この時ルノーは「ギーが自身の土地の領主であるのと同じように、自分も自身の土地の領主であり、自分はサラセン人とは停戦していない」と語った。バーバーによれば、このようなルノーの不服従は、ギーの統治下で王国が「半自律的な封土の集合体に分裂する寸前にあった」ことを示している[131]。サラーフッディーンはエルサレム王国に対するジハード(聖戦)を宣言し、停戦を破ったルノーを自らの手で殺すと誓った[134]。歴史家のポール・M・コブ英語版は、サラーフッディーンが「同志であるイスラーム教徒との戦争にあまりにも多くの時間を費やしていると批判する人々を黙らせるために、フランク人に対する勝利を強く必要としていた」と述べている[135]

キャラバンに対するルノーの攻撃について
ケラクの領主ルノー公は、フランク人の中で最も重要かつ邪悪な人物の一人であり、イスラーム教徒に対して最も敵対的で、最も危険な人物であった。それを知っていたサラーフッディーンは、障害を伴いながらも何度も何度もルノーを標的にし、その領地を次から次へと襲撃した。その結果、ルノーは屈辱を味わい、誇りを傷つけられ、サラーフッディーンに停戦を願い出た。停戦は成立し、正式に誓いが立てられた。その後、キャラバンがシリアとエジプトを行き来するようになった。(ヒジュラ暦582年に)かなりの数の兵士が同行し、豊富な物資を運んでいた大人数のキャラバンがルノーの近くを通りかかった。この忌まわしい者は信用を裏切って一人残らず捕らえ、キャラバンの物資、動物、そして武器を戦利品とした。そして捕らえた者たちを捕虜にし、牢獄に閉じ込めた。サラーフッディーンはルノーを非難し、その裏切り行為を嘆き、捕虜と物資を自由にしなければルノーを脅すと伝えたが、ルノーはそれに応えず、拒否を貫いた。サラーフッディーンは、もしルノーを自分の手許に置けるようなことがあれば、殺すと誓った。
イブン・アル=アスィール, 『完史』より[136]

敗北と処刑

ヒッティーンの戦いで捕らえられ、処刑されるルノー(ギヨーム・ド・ティールが著した『歴史』とその『続編』の15世紀後半の写本より)

『エラクル年代記』は、サラーフッディーンの妹もルノーがキャラバンを襲撃した際の捕虜に含まれていたという事実とは異なる主張をしている[117][132]。実際にはこの妹は1187年3月に別の巡礼のキャラバンでメッカからダマスクスに戻った[117]。サラーフッディーンはルノーの攻撃から妹を守るため、キャラバンがトランスヨルダン付近を移動していた時に巡礼者たちを護衛した[137]。そして4月26日にトランスヨルダンを急襲し、ルノーの領地を1か月にわたって略奪した[138]。その後、サラーフッディーンはダマスクスとティベリアを結ぶ街道上に位置するアシュタラー英語版まで進軍し、そこで自分の支配地の全域から軍隊を集結させた[139][140][141]

キリスト教徒の軍隊はナザレの北に位置するサッフーリーヤ英語版に集結した[139][142][143]。トリポリ伯レーモン3世がサラーフッディーンの軍勢と直接戦うことを避けるようにギー・ド・リュジニャンへ説得を試みたものの、ルノーとジェラール・ド・リドフォールは議論で主導権を握り、サラーフッディーンを攻撃するようにギーを説き伏せた[129][144]。この議論の最中にルノーは敵に協力しているとしてレーモン3世を非難した[145][146]。その後、十字軍はサラーフッディーンとの決戦のためにティベリアスに向かったが、7月の真夏の炎天下における行軍は十字軍に疲労と水の補給不足を招いた[147]。結局、7月4日に起こったヒッティーンの戦いで十字軍はサラーフッディーンに壊滅的な敗北を喫し、キリスト教徒の軍の指揮官のほとんどが戦場で捕らえられる結果に終わった[148]

サラーフッディーンの前に引き出された捕虜の中にはギー・ド・リュジニャンとルノーも含まれていた[149][150]。サラーフッディーンは氷で冷やしたバラ水が入った杯をギーに渡し、ギーはそれを飲むとルノーに杯を手渡した[151][152]。その場に同席していたイマードゥッディーン・アル=イスファハーニーは、ルノーがその杯の水を飲んだと記録している[149]。慣習法では捕虜に食べ物か飲み物を与えた者はその捕虜を殺してはならないとされていたため、サラーフッディーンはルノーに杯を渡したのは自分ではなくギーであると指摘した[151][153]。イマードゥッディーンとイブン・アル=アスィールは、サラーフッディーンが自分の天幕にルノーを呼び[149]、山賊行為や冒涜的な言動を含む多くの罪を非難し、イスラームへの改宗か死かの選択を迫ったと伝えている[129][151]。ルノーがはっきりと改宗を拒否すると、サラーフッディーンは剣を取ってルノーを突き刺し[129][151]、ルノーが地面に倒れるとその首を刎ねた[129][154]

サラーフッディーンがルノーに改宗の選択肢を与えたという記録の信頼性については、イスラーム教徒の作家たちがサラーフッディーンの印象を良くしたいためだけにこのような記録を残した可能性があるため、学問的には議論の対象となっている[155]。エルヌールの年代記と『エラクル年代記』はルノーが処刑されるまでの出来事をイスラーム教徒の作家たちとほぼ同じ言葉遣いで詳述している[151]。しかし、エルヌールの年代記ではルノーがギーから手渡された杯の水を飲むことを拒否したとされている[149][156]。また、エルヌールはサラーフッディーンの兵士たちがルノーの首を切り落とし、その首は「ルノーが不当に扱ったサラセン人たちに復讐が果たされたことを示すために地面に引きずられながら」ダマスクスに運ばれていったと記録している[157][156]。一方でバハーウッディーンは、ルノーの最期はギーに衝撃を与えたが、サラーフッディーンはすぐにギーを安心させ、「王は王を殺したりはしないものだが、あの男の背信と傲慢な言動はあまりにも行き過ぎていた」と語ったと伝えている[158]

ヒッティーンの戦いの後、サラーフッディーンは速やかに軍を進め、1187年9月までにアッコカエサレアハイファアルスーフ英語版シドン、ベイルート、そしてビブロスを次々と占領した[143][159]。そして1187年10月2日にはバリアン・ディブランが守るエルサレムを占領する英語版ことに成功した[159][160]。これらのヒッティーンの戦いから続いたエルサレム王国の危機的な状況は第3回十字軍が派遣されるきっかけとなった[161]

家族

ルノーの最初の妻であるコンスタンス・ダンティオシュ(1128年生まれ)はアンティオキア公ボエモン2世とアリックス・ダンティオシュ英語版の一人娘として生まれた[162]。そして1130年に父の死を受けてアンティオキア公の後継者となり[163]、その6年後にレーモン・ド・ポワティエと結婚したが、レーモンは1149年に戦死した[164]。未亡人となったコンスタンスとルノーの結婚ついて、ハミルトンは「世紀の不釣り合いな結婚」と表現しているが[10]、バックは「この結婚は西洋の年代記では言及されていない」点を強調している[16]。さらに、バックはルノーが比較的低い身分の出自であったため、成年に達した際に統治権を強く主張する息子を持つ未亡人の公女の結婚相手としては、ルノーは「実際のところ理想的な候補者」であり、恐らく「いずれは身を引くことが期待されていた」と述べている[165]

ルノーとコンスタンスの娘であるアニェスはハンガリー王イシュトヴァーン3世(在位:1162年 - 1172年)の弟で当時ビザンツ帝国に居住していたアレクシオス=ベーラと結婚するために1170年の初頭にコンスタンティノープルに移った[166]。アニェスはコンスタンティノープルでアンナと改名し[167]、夫は1172年に兄の後を継いでハンガリー王ベーラ3世となった[168]。アニェスは夫の後を追ってハンガリーに向かい、1184年頃に死去するまでの間に7人の子供を儲けた[167]。ルノーとコンスタンスの次女であるアリックスは1204年にエステ家アッツォ6世英語版の3番目の妻となった[169]。ハミルトンとバックによれば、ルノーとコンスタンスの間には他にも息子のボードゥアン英語版が生まれたが、ランシマンはボードゥアンの父親をルノーではなくコンスタンスの前夫のレーモン・ド・ポワティエと説明している[170][171][172]。そのボードゥアンは1160年代前半にコンスタンティノープルに移住し[59]、1176年9月17日に起こったミュリオケファロンの戦いでビザンツ軍の騎兵連隊を率いて戦ったが、この戦いで戦死した[173]

ルノーの2番目の妻であるステファニー・ド・ミイィの父はナーブルス領主のフィリップ・ド・ミイィ英語版、母はモンレアル領主のモーリス・ド・モンレアル英語版の娘のイザベルである[174]。ステファニーは両者の下の娘として1145年頃に生まれた[175][176]。ステファニーの最初の夫であるオンフロワ3世・ド・トロン英語版は1173年頃に死去した[177]。ステファニーは1174年初頭にミロン・ド・プランシー英語版と再婚したが[177]、そのミロンは1174年10月にアッコで殺害された[175][178]

評価

アラビア語とラテン語が併記されている1732年に出版されたバハーウッディーン・ブン・シャッダードによるサラーフッディーンの伝記。バハーウッディーンの著作にはルノーに関するいくつかの(主に否定的な)言及がある。

ルノーの生涯に関するほとんどの情報はルノーを敵視していたイスラーム教徒の作家たちによって記録されている[179]。バハーウッディーン・ブン・シャッダードはサラーフッディーンの伝記の中で、「怪物のような異教徒であり、恐ろしい迫害者」であったと記している[180][181]。サラーフッディーンはルノーを570年にメッカの破壊を試み、クルアーンアル=フィールの章(スーラ)で「象」と呼ばれているエチオピアの王になぞらえた[182]。イブン・アル=アスィールはルノーを「フランク人の中で最も非道な人物の一人であり、最も悪魔的な人物の一人」と評し、「イスラーム教徒に対し最も強い敵意を抱いていた」と説明している[183]イスラーム過激派は現代においてもなおルノーを敵の象徴の1つとみなしている。2010年にある貨物機の中に紛れていた2つの郵便爆弾のうちの1つは明らかにルノーを指している「Reynald Krak」という宛名が書かれていた[7]

12世紀から13世紀にかけてルノーについて言及しているほとんどのキリスト教徒の作家は、ルノーと政治的に対立していたギヨーム・ド・ティールによる影響を受けている[179]。『エラクル年代記』は、1186年と1187年の変わり目にルノーがキャラバンを攻撃したことが「エルサレム王国の敗北の原因」になったと記している[117]。ハミルトンによれば、現代の歴史家は大抵においてルノーを「イスラーム教徒の目標に対する以上にキリスト教徒に害をもたらす一匹狼」として扱ってきた[179]。ランシマンはルノーについて、トランスヨルダンを通過する裕福なキャラバンを前にして誘惑に勝てなかった略奪者と述べ[95]、ルノーが1180年に合意されていた停戦の期間中にキャラバンを襲撃したのは「自分の意に反する政策を理解できなかった」からだと指摘している[95]。一方でコブはルノーを「サラーフッディーンにとって情け容赦のない強敵」と説明し、ルノーの挑発的な行動が必然的にエルサレム王国にとって致命的なものになったサラーフッディーンによる侵攻を招いたと指摘している[184]

キリスト教徒の作家の中にはルノーを信仰の殉教者と見なす者もいた[129]。ギー・ド・リュジニャンの兄弟のジョフロワ・ド・リュジニャン英語版からルノーの死を知らされたピエール・ド・ブロワ英語版は、その死から間もなくルノーに『アンティオキア公ルノーの受難』と題する本を捧げた。この受難記はルノーがヒッティーンで真の十字架を守っていたことを強調している[129]。ハミルトンはルノーについて、十字軍国家の国境に沿って存在していたイスラーム諸国がサラーフッディーンの手によって統一されていく状況を何度かにわたり阻止しようとした「経験豊富で責任感のある十字軍の指導者」だったと評している[185]。コブはこのハミルトンの説明について、ルノーに対する「紙上の悪評」を「払拭する試み」だと述べている[186]。また、ジョティシュキーは、ルノーのキャラバンへの襲撃に対するハミルトンの正当性の主張を引用しつつ、同時にこの停戦違反の行動はサラーフッディーンに侵略の口実を与える原因にもなったと指摘している[187]。一方で歴史家のアレックス・マレットは、ルノーによる海軍の遠征を「十字軍の歴史の中で最も驚くべき出来事の1つでありながら、未だに最も見過ごされている出来事の1つ」と呼んでいる[183]

大衆文化

リドリー・スコットが監督を務め、2005年に公開された映画『キングダム・オブ・ヘブン』において、ルノーはギー・ド・リュジニャンやテンプル騎士団とともに悪役の一人として登場する。ブレンダン・グリーソンが演じたルノーは、映画の中でイスラーム教徒を全面的に破滅させようと意図的にイスラーム教徒との対立を引き起こす好戦的で狂信的なキリスト教徒として描かれている[188][189]

脚注

注釈

  1. ^ ルノーと同時代の歴史家であるエルヌール英語版は、ルノーがフランスの「ジエンの領主の兄弟」であったと述べている。リシャールは年代的な理由から、このジエンの領主はドンジー領主のジョフロワ2世の兄弟であり、1153年に花嫁の持参金としてジエン城英語版を娘のアリックスに与えたエルヴェ以外には考えにくいとしている。この二人の兄弟もルノーと同様にエルヴェ2世・ド・ドンジーの息子であった[4]
  2. ^ エデッサ伯国アンティオキア公国エルサレム王国トリポリ伯国といった十字軍国家は1098年から1105年にかけて行われた第1回十字軍の結果、西欧の貴族たちによって中東地域に建国された。狭く細長い土地を占領していた十字軍国家はその存続を外部からの支援に依存しており、国家の指導者たちはしばしばヨーロッパのカトリックの支配者たちに救援を求めた[9]
  3. ^ アンティオキアのドゥクス(dux)は公国に存在した11の最高位の官職の1つであったが、国家運営におけるドゥクスの役割に関する詳細な情報は参照することができる史料の中には残されていない[24]
  4. ^ コンスタンスの父方の祖父でイタロ・ノルマン英語版系の貴族であったボエモン1世(在位:1098年 - 1111年)は、かつてのビザンツ帝国の領土にアンティオキア公国を建国したが、ビザンツ帝国はこの地域に対する領有権の主張を決して放棄しようとはしなかった。当初、ボエモン1世は1108年に結ばれたディアボリス条約英語版によってアンティオキア公国に対するビザンツ帝国の宗主権を認めさせられたが、この条約が実効性を持つことはなかった。その後、1137年にレーモン・ド・ポワティエはビザンツ皇帝ヨハネス2世コムネノス(在位:1118年 - 1143年)に対する忠誠を宣言した[29][30]
  5. ^ キリキアの山岳地帯に割拠していたアルメニア人軍閥の指導者たちは十字軍国家の成立を利用してビザンツ帝国やトルコ人の隣国に対する立場を強化した。キリキア・アルメニア王国ルーベン朝英語版は十字軍(あるいはフランク人)と密接に協力し、しばしばアンティオキア公の宗主権を受け入れた[31]
  6. ^ この時のキプロスへの侵攻では略奪行為の他にも町への放火や住民の虐殺といった残虐行為も行われていた[35]
  7. ^ ボードゥアン3世はマヌエル1世の姪のテオドラ英語版と結婚しており、当時のエルサレム王国とビザンツ帝国は同盟関係にあった。この時ボードゥアン3世がマヌエル1世の下を訪れた目的の一つはアンティオキア公国を自らの影響下に置くことに対するビザンツ皇帝の承認を取り付けることにあったが、マヌエル1世はルノーのアンティオキア公の地位を安堵した[48]。ビザンツ学者の根津由喜夫は、その意図について、十字軍諸国が一人の君主の下に統合されるのを防ぎ、分断された状況を維持することで周辺諸国に対するビザンツ帝国の優位な立場を維持することにあったと述べている[49]
  8. ^ エデッサ伯国自体はザンギー朝を樹立したイマードゥッディーン・ザンギーによって1144年にエデッサ攻略され英語版、すでに消滅していた。このエデッサ陥落の事件は第2回十字軍が派遣される契機となった[58]
  9. ^ サラーフッディーンはもともとはヌールッディーンの家臣だった人物であり[60]、エルサレム王国の侵攻を受けたファーティマ朝の要請に応じてヌールッディーンが派遣した遠征軍(指揮官はサラーフッディーンの叔父のシールクーフが務めていた)に加わる形で1169年にエジプトに入っていた[61]。その後、ファーティマ朝のワズィール(宰相)に就任したシールクーフの死を受けて同年に後任のワズィールとなり[62]、1171年にはファーティマ朝自体を廃してエジプトで事実上独立した[63]。1174年のヌールッディーンの急死はヌールッディーンがサラーフッディーンを討伐するための軍隊を編成していた最中のことであった[64]
  10. ^ このルノーによる海軍の遠征を機に紅海で活動していたユダヤ教徒やキリスト教徒の商人は締め出され、カーリミー商人と呼ばれるイスラーム教徒の商人集団が紅海における貿易活動の主役を担うようになった[110]
  11. ^ オート・クール(haute cour)(別用語で国王宮廷会議(curia regis)とも呼ばれる)は国王主催で封建家臣が参加するエルサレム王国の最高審議機関であったが、その他の審議機関としては、緊急時や非常事態への対応のために広く聖俗の有力者が参加する総会・全体会議(curia generalis/parlement)や諮問会議(consilium/conseil)などがあった[119]

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参考文献

日本語文献

  • アンドリュー・ジョティシュキー 著、森田安一 訳『十字軍の歴史』刀水書房〈刀水歴史全書〉、2013年12月6日。ISBN 978-4-88708-388-2 
  • 太田敬子『十字軍と地中海世界』山川出版社〈世界史リブレット〉、2011年5月30日。ISBN 978-4-634-34945-2 
  • 櫻井康人『十字軍国家の研究 ― エルサレム王国の構造』名古屋大学出版会、2020年6月30日。ISBN 978-4-8158-0991-1 
  • 佐藤次高『イスラームの「英雄」サラディン ― 十字軍と戦った男』講談社講談社学術文庫〉、2011年11月10日。ISBN 978-4-06-292083-4 
  • 根津由喜夫『ビザンツ ― 幻影の世界帝国』講談社講談社選書メチエ〉、1999年4月10日。ISBN 4-06-258154-X 

外国語文献

一次資料

二次資料

ルノー・ド・シャティヨン

1124年? - 1187年7月4日

先代
レーモン・ド・ポワティエ
アンティオキア公
1153年 - 1160年/1161年
次代
ボエモン3世英語版
先代
ミロン・ド・プランシー英語版
トランスヨルダン領主英語版
1176年 - 1187年
次代
オンフロワ4世・ド・トロン